中山 和也通訳
テキスト/高尾浩司 写真:大堀 優(オフィシャル)
text by Takao,Koji photo by Ohori,Suguru (Official)
どデカい体、無邪気な笑顔、試合中に風間八宏監督の傍で放つ、只ならぬ存在感――。
中山和也・通訳が川崎フロンターレに来て、今年で5年が経つ。このクラブに来るまでの経緯はここに譲り、
今回は「川崎でのこれまで」について触れる。
外国人と日本人の橋渡し役を担う、通訳という仕事。単純に言葉だけでなく、場合によっては感情も伝えなければならず、かなり難易度が高い。サッカークラブの通訳の場合、外国人の選手がいないと成り立たない職業だ。中山さんのクラブとの契約は1年ごとに更新される。選手同様、毎年、さらには毎日が勝負なのだ。
「クラブがシーズンオフにブラジル人選手を獲得するか・しないかは、気になりません。ただ、彼らがいなくなれば必然的に僕も必要とされなくなります。ヘタしたら、ブラジル人がいても『もう、キミはいらないから』と言われるかもしれませんしね」
シリアスな話題でも、こう言って冗談ぽく笑う。麻布大渕野辺高時代の教え子、小林悠も「ゴンさん(中山さんの愛称)は常に何か面白いことをやろうと企んでいる」と語る、愛されキャラだ。その小林の結婚式で、いまをときめくAKB48のダンスを披露。会場中の笑いを独り占めするなどとにかく明るい。ただ、ピッチでは人一倍熱く、危機感を抱えながら、ここまで突っ走ってきた。
仕事をする上で意識するのは、選手たちとの距離。外国人選手が言ったことを日本人の選手に伝える。だから、そのどちらかに意識が偏っていては、伝えるべきことも、うまく伝わらない。「外国人選手と打ち解けても、僕は対日本人で仕事をします。日本人選手との距離も近くないとダメ。『お前がそう言うのならば、間違いない』と信頼されることが理想」(中山さん)なのだ。
では、そんな中山さんにとって、仕事していてうれしい瞬間とは――。
「僕を介さず、ブラジル人の選手が日本人に話し掛けたり、日本人の選手がブラジル人に話し掛けるときです」
川崎フロンターレに来てから、通訳が担うべき役割とは何か、意識が変わっていった。ここ数年、悪い意味ではなく、選手たちとの距離を置くようになった。中山さんの中で、徐々に芽生えた疑問があった。
「すべての状況で選手たちの間に入る必要はないよなって。横浜FCでこの仕事を始めたときは、自分にできることは全部やってあげないといけないと思っていました。でもここ数年は、逆に『すべての世話をしても、選手のためにはならない』と気づきました。必要なときだけ通訳して、あとは本人たちが自分なりに何とかした方が、日本語を覚えます。日本人選手とも、もっと仲良くなれます」
特に、通訳とはこうあるべきだ、と思ったわけではない。意識を変えようとして変えたわけでもない。それでも選手たちとの距離を変えようと思い立ったのは、自らの成功体験があるからだ。
「僕がブラジルに留学したとき、通訳はいませんでした。不便なことがあった分、その中で何が必要か考える癖が身につきます。そのひとつが、言葉を覚えることでした。言葉が分からない中でも、ブラジル人と接することによって覚えられます。現地の人とも仲良くなり、世界が広がります。だったら、川崎にいる外国人選手に対して、過保護になってはダメだな、と。彼らはプロサッカー選手ですから、もちろんピッチ上では通訳しますよ。ただ、ピッチから離れたら何から何まで面倒を見る必要もないかなと思ったんです」
こうはいうものの、中山さんが川崎フロンターレに来てから「面倒を見る必要がある」ブラジル人選手の世話をしたことも確かだ。中でもレナチーニョと、ヴィトール・ジュニオールには手を焼いた。夜中の3時、4時に電話をしてくることは当たり前。調べごとを頼まれ、眠い目をこすって折り返すと電話に出ないことが何度もあった。
09年、大阪遠征での事件は忘れ難い。監督の許可を取り、後泊する予定だったホテルではなく、遠征先のブラジル人選手の家に宿泊する流れになった2人。「明日の朝、駅まで自分たちで行く」と宣言した。ただ、根拠のない自信はアテにならなかった。
「翌日、待てども待てども、2人が駅に来る気配がない。確認の電話をしても、出ないんです。東京行きの新幹線が出発する10分前にやっと本人たちから連絡が入ったと思ったら『駅の前の道が渋滞している』と。こりゃあマズイと思って駅の外に出ると、確かに立ち往生しているタクシーがいるんです。もう、焦って焦って『すぐ降りて、走ってこい!』と言うしかありませんでした」
スーツ姿のレナチーニョとヴィトールは、トランク片手に試合さながらの猛ダッシュ。新幹線のドアが閉まるのと同時に車内に乗り込んだというが、これも「表に出せない話に比べると可愛いもの」らしい。
その点、2人とは逆にまったく手がかからなかったのが、ジュニーニョだ。日本の免許を持っていたため、好きな場所にも行ける。練習前後に送り迎えする必要がなく、手伝うとしたら、テレビ電話でナビの設定の仕方を教えるくらいだった。お互いに大人で、変にベタベタしたやりとりはなかった。それでも細かい事務仕事をきっちりこなすうちに信頼され、絆を深めた。ウマも合った。
中山さんが忘れられない試合のひとつは、ジュニーニョの川崎フロンターレでのラストゲーム、2011年12月3日の磐田戦だ。0-2で迎えた52分、ジュニーニョが見事こぼれ球を押し込んだ。直後、アウェー席にいる川崎ファンにユニフォームを投げ入れて、喜びを分かち合った。ジュニーニョならではの感謝の表現の裏で、こんなやり取りがあった。
「試合前、ジュニが『点を取ったら、カードは承知でユニフォームをファンに投げ入れるから』と言うんです。そうかと。これは本気だなと。だから念のため、僕がもう1枚ユニフォームを忍ばせていたら、本当にゴールを決めてしまった。こりゃすごいと思って見ていたら、ひととおり喜んだジュニが僕の方に走ってくるんです。そこで我に返り、慌ててユニフォームを彼に投げて、あとは知らん顔です。結局、ジュニは警告を受けていましたが、主審は笑顔でした。僕も試合後、ジュニに例の(2枚目の)ユニフォームをもらったので、最高にうれしかったです」
このシーズンが終わるとき、ジュニーニョから突然、切り出された。
「通訳が必要だ。僕が行くクラブにすでに通訳がいるのなら、僕が個人的にキミを雇う」
結局、話は流れた。だが、後にも先にも、こんなことを言ったのはジュニーニョだけ。それほど、気にかけてくれた。オフには中山さんと奥さんの2人をブラジルまで招待し、添乗員代わりになってくれた。ジュニーニョなりの、恩返しだったのかもしれない。
「ありがたいことです。僕の川崎での3年目は、通訳の対象はジュニーニョだけでした。彼は日本語ができますが、ブラジル的な会話をする相手が僕しかいませんでした。そこで気を許してくれた部分は、あると思います。仕事仲間だけでなく、ひとりの人間としても付き合うというか」
現在の川崎フロンターレにもジュニーニョクラスの人気を誇る選手がいる。いまや川崎に欠かせないCB、ジェシはそのひとりだ。リーグ最終節でも見せたように、プレーの端々から責任感や意地が伝わってくる。ファンから「ジェシ様」と愛される男は、ピッチの外でも変わらない。
「とにかく、ファンを大事にします。人との接し方を大事にするから、丁ねいにサービスする。本物のプロです」(中山さん)
今夏、奥さんが病気を患って、2人でブラジルに帰っていたときも、ジェシの頭の片隅には川崎があった。時間があれば川崎関係のサイトをチェック。チームの動向を追った。その間、中山さんと電話で毎日のように話しをした。「ジェシは等々力で掲げられた自分宛ての横断幕を見ているわけです。『日本に戻らなければいけないよな。でも、奥さんの状況が状況だから、戻れないかもしれない』と葛藤していたはずです」(中山さん)
葛藤していたのは中山さんも同じだった。ジェシがブラジルに帰国する前、日本の病室で奥さんの病名を一番最初に聞いた。それをまずジェシに説明してから、次に奥さんに病状をオブラートに包んで伝えるという困難な役割を担った。2人がブラジルに帰っている間はクラブとジェシ、必要とあらばファンとジェシの間にも入った。それだけ、精神的に選手と近いところにいた。
「♪ジェ〜シ〜、ジェ〜シ〜♪」。10月19日の磐田戦で勝利(○2-1)した後、ファンの下に挨拶にいった。その際、すでに日本に戻ってきていたジェシの歌を横取りしたのは、ご愛嬌。「お前、裏切り者か! 何、歌っているんだ」と本人に突っ込まれたが、中山さんは、意に介さない。そこに、2人の信頼関係が見てとれる。
2年前に来日したとき、そのジェシの家来のように行動していたのが、いまやJリーグを代表する助っ人、レナトだ。当時は口数も少なく、とにかくシャイ。ブラジルの片田舎出身だと思っていたら、本当にそうだった。「いまでこそ、僕をいじってきますけれど、日本に来たころはおとなしかったです。打ち解けるためにグイグイ懐に入っていったし、無駄に話しかけて笑わせ、チームの輪の中に入れるようにもしました」
その甲斐もあって、いまでは家族ぐるみで付き合う仲になった。ただ、実戦で披露する鋭いフェイント同様、ピッチの外でもつかみどころがない。簡単に言うと天然なのだ。
「最近だと、奥さんがブラジルに帰国したとき、スーツケースを新調したんですね。で、そのカギを閉めておいてと奥さんに言われ、カギを閉めた後、レナトはカギを自分のポケットの中に入れたんです。もう分かりますよね?奥さんが成田空港の近くから「もうすぐ空港に着く」と電話が入ってきたのですが、カギは川崎にいるレナトのポケットの中。相当、焦ったらしいです(笑)」
ほかにも、思わずずっこけてしまうような話が多い。
「レナトって、予期せぬときに電話をかけてきて、『ごはんに行こう』というタイプなんです。勢いで、その日の相手の予定を埋めてしまうタイプというか。で、あるときまた、『都内で肉を食べよう』なんて電話がかかってくるわけです。ああ、またかと思いつつ、『何時に集合?』と聞くと、集合時間を教えてくれます。だからジェシと、彼の家族も誘って、僕は一旦家に帰って車を取ってから都内に向かう流れになります。それで、大急ぎでいろいろ準備とかするわけじゃないですか? すると、ジェシから電話が来て『今日のじゃなくて、来週の話だった……』と言うんです。だったら、明日話せばいいじゃん! と(苦笑)。仕方ないから、その日はジェシの家族と別のお店で夕飯を食べました」
おっとりした性格だから、日本になじむまで時間がかかると思っていた。だからこそ、何度も外に誘い出した。来日当初は日本がどれだけ安全か分からなかったレナトも、いまでは積極的に家族と外出するようになった。絶対に、とは言い切れないが、ピッチ外での充実がピッチ内での充実につながったひとつの例だろう。
川崎に来てからの5年で、中山さんはいろいろなタイプの選手たちと関わった。その中で得たものは、もちろん大きい
「単純に『私』と『あなた』ではなく、僕は人と人をつなげなくてはいけない。言わば、仲介人です。この人をあの人とつなげるには、どうすればいいのか。もっと言うと、『ここを変えなきゃ、つなげられないかな』とか、いろいろな角度で人を見ることが多いと思います。その分、観察力、人と人をつなげたり、工夫する力は自然と身についてきました」
ここ最近、ふと考えるようになった。試合会場に行くまでの道のり、その両脇には大勢のファンが歩いている。自分たちを応援して迎え入れてくれる。数万人のファンが見守るピッチに立つのは、あらためて特別で、光栄なことだと感じている。
「そんなことを、選手たちが試合前にアップしているときに思ったりします。僕の場合、いろいろなことが合わさって、たまたま川崎で働かせてもらっています。でも、この先、どうなるかなんて分かりません。新たな人生やチャレンジも……、と考えたりもします。たまには(笑)。そうやっていろいろなことを考えても、試合前の風景を見るとまっさらになります。ただ単に『この仕事をやりたいから』といって、この場所に立てるわけではありません。さまざまな人たち、多くの物事がめぐり合った結果、僕はここに立たせてもらっているんだとあらためて思うんです」
選手を思い、クラブを思い、自分をこの場に立たせてくれた人も思う。選手同士の距離を近づけるため、自分も選手たちに寄り添い、ともに闘う。このスタイルは、今後も変わらない。