不屈のサッカー小僧選手
テキスト/高尾浩司 写真:大堀 優(オフィシャル)
text by Takao,Koji photo by Ohori,Suguru (Official)
2013年6月17日、川崎フロンターレに新たな歴史が刻まれた。
中学・高校と同クラブのアカデミーで育った可児壮隆(かに・まさたか)が川崎への加入を発表。
クラブ史上初めて、大学を経てトップに戻ってきた選手が生まれたのだ。
関西の大学界No.1ミッドフィールダーの肩書きを引っ提げ、
愛するクラブに帰還した青年のこれまでの道のりを辿る。
物心がついたときには、サッカーボールを蹴っていた。大学時代、アーチェリーに打ち込んでいた両親の下で育ち、体を動かすことが大好きだった。サッカーと出会ったのは、幼稚園の年中のとき。もともとは、幼稚園の隣にあるスイミングスクールで水泳を習っており、そのスクールで泳いでいる子ども限定で開かれたサッカースクールに参加したのが、始まりだった。当時のことは、あまり覚えていない。ただ、ドリブルやシュートをはじめ、プレーしていてすべてが楽しかったことだけは記憶に残っている。
地元の横浜市立鉄(くろがね)小学校に進むと、さらにサッカーにのめり込んだ。鉄FCに所属しつつ、よりレベルの高いスクール、FCムサシで技を磨く。また、FCムサシに通うメンバーの中から選抜されるチーム、クラッキの一員としても切磋琢磨した。
小学校の仲間たちがテレビゲームやカードゲームで遊ぶ中、可児少年はひたすらボールを蹴る。朝ごはんを食べて授業を受け、放課後はサッカーの練習に取り組み、家に帰る。最寄のあざみ野と、クラッキの練習場がある二子玉川に田園都市線で通い、練習後、家に着くと夜9時を回っていたこともある。それでも、小学生にとって少し遠い練習場までの往復は、まったく苦にならなかった。当時を振り返り、サッカー中心の生活が楽しかったと笑う。
「スクールは木曜が休みだったんですけど、オフの日も放課後、2人のサッカーをやっていない友人と校庭に残って、3人でボールを蹴っていました。何がそんなに楽しかったのか……自分でも分からないけど、あれだけピュアな気持ちでひとつのことを好きになれるって、いま思うとすごいです」(可児)
夏休みには、自宅から徒歩30秒のところにあるコンクリートでできた壁に向かい、壁当てを続けた。お昼の1時から夜の7時まで。壁から出ていた排水溝の穴を目がけて黙々とボールを蹴り続ける。日が経つにつれ、ボールの表面の皮がはがれてボロボロになった。それを見ると、「こんな形になるまで蹴ったのか」と妙に充実感に満たされた。
毎日サッカーと向き合ううちに、みるみる技術がついた。小学5年生になると、技巧派のトップ下として横浜市の選抜に名を連ねるまでに成長した。そして、その選抜チームで高木俊幸(現清水エスパルス)たちとしのぎを削るうちに、向上心が芽生える。
「上には上がいるというのを、そのとき知りました。周りにはマリノスのジュニアチームに属している選手をはじめ、うまい子たちがたくさんいて。レベルが全然違うと思ったし、もっとうまくなるにはJのクラブチームに入ったほうがいいかもしれないと思うようになりました」
両親と相談した末、東京ヴェルディ、FC東京、そして、川崎のジュニアユースの一次セレクションに参加することを決意。迎えた川崎でのセレクションの当日、可児は周囲を驚かせるプレーを連発した。「なぜか絶好調だった」と本人は謙そんするが、FCムサシ仕込みのスキルを遺憾なく発揮。漫画『キャプテン翼』の主人公、大空翼のモデルとなった水島武蔵さん率いるFCムサシで磨いた技は、異彩を放っていた。結果、この日、セレクションに参加していたすべてのコーチから満場一致で合格をもらう。それだけでなく、クラブ史上初めて二次セレクションを免除された選手という「おまけつき」で、川崎フロンターレの下部組織に進むことになった。
Jクラブの下部組織に入り、プロへとつながる道に踏み出した。しかし、阿部和雄前監督の下で過ごした中学・高校の6年間は、悪戦苦闘の毎日だった。
「とりあえず、めちゃくちゃきつかったです(苦笑)。ユース時代の仲間と再会したとき、必ず盛り上がるのが『俺たち、本当によく走ったよね』という話。それくらい、走っていました」
1対1や2対2など、ボールを扱う練習ひとつとっても、体力が要求された。常に息が上がり、楽な状態でいることは少なかった。その上、当時強豪とは言えないチームが練習試合などでミスを散発すると、さらなる走り込みが待っていた。グラウンド内でひと通り走った後、今度はその周りを40周。お昼休みを挟み、午後には7キロのコースを3周するなど、陸上部顔負けの走りをこなす。実際、可児は体育祭での長距離走では常にひとケタ順位を誇った。
ただ、こうした厳しい練習を辞めたいとは思わなかった。そもそも疑問がなかった。
「周りについていくのに、必死でしたから。毎日毎日、練習の前に40分のサーキット走をこなして、その後に厳しい練習。で、練習が終わったらまた走っていたんですけど、これが普通なのか、と。『ここで頑張ることが、プロへの一番の近道』と思っていました」
中盤の底でもサイドでも、ボールを奪われたら奪い返す。攻守の切り替えを早くする。常に声を出し、フリーランを怠らない。走り込みに加え、ピッチ内での当たり前のことを徹底して叩きこまれるうちに、不思議と自信が湧いてきた。自分たちは絶対日本一走ったチームだから相手に走り負けるわけがない。中高時代に心肺機能と精神力が備わり、のちの武器となった。
同時に持ち味の技術を伸ばすことにも余念がなかった。いくら走力重視のチームにいようが、自分にはフィジカルで相手を圧倒することはできない。技術を生かしてプレーすることを常に意識した。そして、技術を伸ばすには考える癖をつける必要があると気付いたのも、このころだ。
「もともと、『今日はここがダメだったな』と考えながらやっていたけど、それプラス、僕らユースの選手たちは、プロのスタッフによる講習会を受けられたことが大きいです。特に福家三男強化部長(当時)のお話は印象に残っています。福家さんはケンゴさん(中村憲剛)を例に出して、『ケンゴの足元の技術はJリーグでも一流だよ。でも、頭の中は超一流だ。だから、あそこまでの選手になれたんだ』と話していました。僕自身、強さもスピードもないし、考えないとプロでは通用しないと思いました」
とはいえ、高校時代、本気でトップ昇格を意識したことはない。トップ下や中盤の底、サイドハーフで奮闘したが、最終的にサイドバックの控えも経験。トップチームの紅白戦に借り出されることはあったが、昇格の誘いはなく、高3の春には大学進学を考えていたという。考えた結果、中央大と専修大に進路を絞った。しかし、前者は早々にあきらめ、臨んだ後者の受験では面接に向けた準備不足がたたり、失敗してしまう。そんな中で見つけたのが、大阪の阪南大だ。浪人覚悟で参加した3日間の練習でアピールに成功、問題の面接も事前に高校の担任との特訓を行なった成果が出て、見事に合格を勝ち取った。
阪南大に入学すると、初めて実家を出て、見知らぬ土地・大阪での寮生活が始まった。親元を離れる寂しさもあり、入学当初は不安があったものの、それもサッカーが忘れさせてくれた。春先はチーム内にケガ人が出る中、うまくコンディションを維持し、1年生ながら見事、関西学生リーグの開幕スタメンに抜てきされる。
「入学してきた当初は地味な印象でしたが、(開幕前の)3月に入ってから彼ひとりだけ調子を崩していなかったんです。よく走るし、プレーもスムーズ。線が細く、こぼれ球を拾えないという弱点もあったけど、それ以上に長所が目立っていました。マークされていても、フッと相手の間に入ってボールを引き出すのがうまかったし、フィットすると思いました」(阪南大・須佐徹太郎監督)
その後も定位置を確保し、最初のシーズンでいきなりチームをリーグ優勝に導く。自身は5得点・5アシストの活躍で新人賞を受賞するなど、充実の1年目を送った。
しかし、飛躍の年にするはずだった2年時、その計画が大きく崩れる。練習量を増やし過ぎたことでコンディションが崩れ、出場機会を失ってしまったのだ。
伏線は、体が動かなくなった1年時の終盤にあった。調子が落ちてきたことに気づき、強靭な体をつくるため、練習に打ち込んだ。それまでも、調子が落ちたときは練習の量を増やすことで解決してきた経験がある。1年の序盤、定期的に試合に出ていた分、練習量が減って、そのツケが回ってきたのかもしれない。自分なりに考え、「質より量」にこだわった結果、これが凶と出た。
「彼は否定するでしょうけど、絶対にトレーニングのやり過ぎでした。われわれスタッフは練習後の決められた時間内にご飯を食べさせるなどしてエネルギーの補給を促していたけど、可児は帰らなかったんです。ウェイトトレーニングをしたり、周りが暗くなるまで走っていたり、あまりにも練習量が多かったと思います。最後は『練習禁止令』を出し、休ませました」(須佐監督)
須佐監督が語るとおり、可児は練習をやり過ぎているとは思っていなかった。だから、監督が帰ったのを確認すると、こっそりグラウンドに戻り、黙々と走り始めた。こうした行動を須佐監督は「知っていた」。しかし、練習をこなせどもコンディションは戻らず、可児は2年次の大半をベンチか、ベンチ外で過ごすことになってしまう。
本気でプロ入りを目指す選手にとって大事な大学2年のときに、不遇をかこった。壁に当たった。「ふざけんなよ」と思うときも、1度や2度ではない。それでも、この1年間で初めて得たものがある。
「裏方の大変さを知りました。試合に出る仲間たちより早く会場に行って1試合目のボールボーイをして、その試合が終わったら今度は仲間を応援する。最後は大学のグラウンドに戻って練習するのでキツかったけど、僕はこういう裏方のお陰で試合ができていたんだと気づき、責任感が強くなりました。
両親への、申し訳ない思いもありました。これで3年生や4年生になっても試合に出られなかったら、いろいろな人が悲しむ。僕に期待してくれている方々をがっかりさせたくないから、何とかピッチに戻れるように頑張ろうと思いました」
試合に出られない原因を自分の中から探し、課題の克服に取り組む日々。目の前の試合に出場できないと分かったときは、その先に照準を合わせて練習する。サプリメントを摂取し、疲労回復に努めるなどさまざまなことを試した。そして何より、腐らなかった。
挫折を経て迎えた2012年、3年生になった可児は、それまでの鬱憤を晴らすかのように暴れ回る。スタメンに復帰すると、右サイドハーフ、左サイドハーフ、トップ下など複数の位置で高水準のプレーを披露。どのポジションを任されても、一発回答を出した。疲労の蓄積や体力の不安もどこ吹く風、須佐監督から信頼を寄せられるようになった。
「3年生のときの可児には、『外れ』がありませんでした。捨て身の覚悟でウチをつぶしに来る相手が多い中、可児はボールを収めていたんです。攻撃だけでなく、守備でも貴重な存在でした。右サイドハーフに置いても、相手が弾いて、ウチの中盤の底の選手が拾うはずのボールを可児が拾っていました。それを1試合の中で5回、6回と続けるんです。こぼれ球を拾って攻撃する回数が1試合に15回か16回だとすると、うち3分の1が可児から始まるわけです。競り合いで負けなくなったし、頼りになりました」(須佐監督)
ボディコンタクトのときは一歩も引かずにうまく体を使った。横や斜め後ろからパスを引き出す場面でどれだけ寄せられても、相手とボールの間に体を入れ、軸足だけでクルッとターンしては、縦パスを入れる。鮮やかな身のこなしはバルセロナのアンドレス・イニエスタを連想させ、いつしか「カニエスタ」と呼ばれるようになった。
高校で培った走力に加え、大学3年時には骨格の可動域を広げる、地道な努力を続けた結果、プレーに凄みが増す。夏の総理大臣杯では猛暑の中、5試合でフル出場を果たし、優勝に大きく貢献。攻守に奮闘する姿を見た須佐監督も「困ったときのカニ頼み」と脱帽するしかなかったという。
終わってみれば、リーグ優勝、総理大臣杯の「2冠」に導き、自身は18アシストで関西学生リーグのアシスト王に輝く。そんな男の動向に、Jのスカウトも注目していた。川崎フロンターレの向島建スカウト部長は、こう語る。
「当時小学生だった彼がウチのセレクションを受けにきた時点で、『スーパーな子だ』と話題になっていました。以降、どう育つのか興味を持っていて、彼が高校生のときには、トップの紅白戦に呼び、チェックしていたんです。そうしたら姿勢が良くて、やはりうまかった。ボールが足元に吸いつくかのような持ち方をしていました。球際で弱いという難点はあったけど、何といっても技術力が高い。大学で頑張って、技術は衰えないと証明してほしかったし、持ち味を出しさえすれば大丈夫だと思っていました」
大学2年生のとき、試合に出られなかったものの、その翌年、壁を打ち破ったことが、プラス評価につながった。
「勢いで突っ走る選手よりも、苦しい時間を過ごした選手の方がプロ向きです。可児くんの場合、そういうこと(挫折)を乗り越えて3年生のときに結果を残した。その経験は、たとえプロで出番を失ったとしても、強みになるはずです。おとなしいけれど、何事にも流されない。彼の芯の強さは、プロで戦う上で信用できる材料です」(向島スカウト)
阪南大の須佐監督と、川崎フロンターレのスカウト陣の信頼を得た可児は、大学3年の終わり、2013年の2月に正式に入団の打診を受ける。あらためて契約用の書類を出されたときは、ずっとあこがれていたクラブに戻ることができると実感し、胸が熱くなった。
同じ時期、湘南ベルマーレからもオファーを受けていた。川崎と湘南の2クラブを比較したとき、即戦力として重宝されそうなのは後者だ。だが、悩みに悩んだ末、川崎入りを決意する。レナトや大島僚太、小林悠はもちろん、あこがれていた中村憲剛もポジションを争うライバルになる。攻撃のタレントひしめくチームで試合に出場できる保証は、どこにもない。それでも、有能な選手たちとともに生活し、練習を続ければ得るものが大きいと感じたことが、入団の決め手だった。
下部組織出身者として、大学経由で川崎に戻ってきた初の選手になる。当然、本人にはその自覚がある。だから、こう意気込む。
「アカデミー出身を代表する選手になりたいです。プロを肌で感じてレベルの高さに驚く毎日だし、慣れるまでには時間がかかるかもしれません。大学2年生のとき以上の試練も覚悟しているけど、まずは試合に出ることを目標に成長したいです。言われた場所、与えられたポジションで、どこでも変わらず一定のレベルを見せられるよう、前向きな姿勢で。一つひとつ階段をのぼり、ゆくゆくはフロンターレを背負う存在になりたいと思っています」
阪南大学から新加入のMF。フロンターレU-18から大学へと進学し、4年間での成長を認められて再びフロンターレブルーのユニフォームを着てプレーすることになった。U-18時代はサイドハーフでプレーしていたが、大学ではボランチのポジションでゲームをコントロール。自信を持つ足下の技術に磨きをかけて出場機会を狙う。
1991年4月18日
神奈川県横浜市生まれ
ニックネーム:カニ