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ピックアッププレイヤー

2012/vol.14

ピックアッププレイヤー:FW10/レナト選手

01レナトが来日したのは、日本が寒さの中で震える1月18日のことだった。

  22日に行われた新体制発表会見でチームの行事に初めて参加すると、24日の川崎大師での必勝祈願を経て、25日からの全体練習に合流した。元々中盤の選手だったレナトは「どんな相手でもゴールをこじ開けられるような選手」(庄子春男GM)としての力を見込まれ、フロンターレの一員となった。9年間に渡り、フロンターレで活躍したジュニーニョの後を継ぐ選手として、その活躍は大いに期待された。もちろん、レナト自身も日本での活躍を心に誓っての来日だった。

「ずっと海外でプレーしたいと思っていたんです。自分の経験のためにそう思っていたんです」と話すレナトは、サンパウロ州の田舎町で生まれた。サッカーが好きだったというお父さんの勧めで、地元にあるサッカースクールに入りそこでプレーする楽しみや喜びを感じた。

「その時、お父さんはサッカーを続けるようにと、いろいろな形で支えてくれました」

 サッカースクールに入ることで大会にも参加できるようになったレナトは徐々に自分と他の同年代の子どもたちとの間にある力量の差を感じ始める。

「そうやって大会に出るようになって自分のプレーについて考えるようになりました。そして他の選手との違いや細かいところを見比べて、プロでやりたいと思うようになりました。自分が成長するたびに、年齢を重ねるたびに徐々に夢も大きくなって、ほんとにプロサッカー選手を目指したいと思うようになったのが10歳くらいのときでした」

04 この10歳という年齢がプロを志すきっかけになったのにはわけがある。このタイミングで、ミナスという街にあるクラブからレナトに誘いが来たのである。代理人が運営するチームで、ミナスの2部リーグで試合を行なっていた。

「オファーが来た時は、行きたいと思う反面、自分の街から遠かったので心配はありましたが、思い切って受けることにしました」

 ミナスでは2年間プレーした。この期間に自分のプレーに自信を付けたレナトは、生まれ故郷に一旦戻り、ヴィトーリアというクラブの下部組織でのプレーなどを経て15歳の時にイトゥアーノというジュニアユース世代のチームに進むこととなる。このイトゥアーノでの経験はレナトにとって大きなものだったという。

「サンパウロ州には小さい大会があるんです。その大会で勝ち上がるとブラジル選手権に参加できるというもので、日本で言えばサテライトのようなチームも出ていました。若いうちにそうしたチームと対戦できたのは自分にとってすごく良かったです。もちろん最初は簡単ではなかったのですが、徐々に慣れてやれるようになりました。また、そうした経験を通して自分でも努力しなければと思いながらプレーを続けました。若かったですし、まだまだやらなければならないことがたくさんあったんです」

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 そんなイトゥアーノ時代の中で、レナトは夢の実現へと大きく前進する。トップチームの試合に出場したのである。

「このイトゥアーノ時代に1試合だけプロの試合に出ました。アマチュア契約だったのですが、デビューしたんです」

 その力を認められたレナトは、イトゥアーノで1年4ヶ月ほどをプレーしたあと、コリチーバとプロ契約を結んだ。彼はまだ16歳だった。日本で言うなら高校1年生。どうしてもプロになりたいと考え、そう心に誓った10歳の頃からの努力が実った形だ。日本とブラジルとでは社会環境が違うとはいえ、日本の16歳の子どもとは違う覚悟があったのは間違いない。

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04 その後レナトはロンドリーナというクラブに移籍し、19歳ごろから本格的にスタメンとしてコンスタントにプレーするようになる。プロとして一本立ちしたこの時期に、レナトにとって大きな出来事が起きる。最も尊敬する三人の一人であると公言し、後に妻となるカローさんとの交際である。

「出会ったのは13歳の時に同じ学校ででした。ただ、ぼくがサッカーのためにあちこち移動しなければならず、ずっとバラバラでした。会えるのは、チームがオフになった時に自分の街に戻った時。そんな中、ちゃんと付き合い始めたのは08年からでした」

 順調に交際を続けたレナトは彼が20歳になった09年12月12日にカローさんと結婚する。家族が増えたレナトは複数のクラブを渡り歩きつつプロサッカー選手としての経験を積み重ねていく。そんなプロ生活の中、日本に来るきっかけとなったのは、本来出る予定ではない試合への出場だった。

「ポンチ・プレッタに居るときに、パラナというチームと試合をしたんです。ところがその試合を迎える前に膝に痛みが出て、プレーするべきか迷っていたんです。最初はやめようと思ったのですが、でもやっぱりプレーしようと考えて、監督に使って欲しいとお願いしました。その試合をたまたまフロンターレの強化部の人たちが見に来ていて、その日のプレーが良かったのです。そこからいろんな話があった中で、自分では話がまとまればいいと思っていて、そうなりました。それで来日することになりました」

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 フロンターレではレナトは当初2トップの一角を担っていた。新潟を迎えての開幕戦で實藤友紀の決勝ゴールをFKでアシストしたレナトは、続く第2節のアウェイでの鹿島戦でFKを直接ねじ込み、チームの開幕2連勝に貢献する。その左足から繰り出されるセットプレーの弾道は、高速かつピンポイントで相手の急所を居抜き、フロンターレサポーターの心を躍らせるものとなっていた。チーム内の評価を固める中、レナトを追いかける形で妻のカローさんと1歳になる娘のアリシアちゃんが来日する。3月28日のことだった。妻と娘とに再会し、練習を終えたレナトはその時の心境をこう述べている。

「家族が来る前も、もちろん練習はやってきましたが、家族が来て準備が整いました。頭の中もクリアになります。家族がブラジルに居る時は、彼女たちのことを常に考えていないとダメでした。でも、今は目に見えるところにいるのでいいですね」

 私生活に安定がもたらされる一方、クラブには激震が走る。4月11日に相馬直樹前監督が解任されたのである。

014月12日の練習後、監督交代について問われたレナトは「コリチーバに居た時に2ヶ月くらいで変わったことがありました。日本に来るときに、他の選手が話していたのは、日本はブラジルほどには監督は代わらないということ。ただこうして代わった以上、頑張らないとダメですね」と気持ちを入れ替えるように述べている。

 相馬前監督の後任監督が決まるまでの12日間ほどの期間、チームは望月達也コーチに率いられ、G大阪、札幌と2試合のリーグ戦を。また仙台とはナビスコ杯で対戦し、2勝1敗の成績を残している。そんな4月18日の仙台戦でレナトはサイドハーフでの起用を試され3−1で勝利。試合後の選手たちからは、レナトのポジションチェンジとプレーについて好意的な言葉が聞かれた。

「レナトが(小林)ユウと代わった。中央でやっている時は、レナトは囲まれて潰されていた(のでよかったと思う)」(矢島卓郎)

「レナトは良かったですね。真ん中で潰されるケースもあった。右サイドで左でもたれたら相手は潰せない。一人は抜くので、そこにカバーが入ったら周りは空いてくる」(田坂祐介)

 望月コーチも「レナトを違うポジションでチャレンジしてみましたが、オプションができたというのもひとつ大きいかなと思っています。正直、それまでは矢島が作ったスペースをレナトがうまく使えないことが多くて、逆に、自分としては右から一気に流れることの効果を期待していました」と話し、レナトのサイドハーフでの起用を前向きにとらえている。

 風間八宏新監督の就任が発表されたのは4月23日。チームは新たな概念で動き始める。もちろん、レナトもそれに従うことになる。

風間監督は、止める蹴るの精度を選手に要求し、常にパスをもらえる位置に顔をだすことを求めている。そうすることで狭いエリアでも相手を崩せるサッカーが実現する。そうしたサッカーの特徴から、ショートパスやポゼッションサッカーと表現されることが多いが、監督自身はロングボールを否定している訳ではない。突き詰めれば、点が取れて勝てればいいのである。そしてそんな風間監督のサッカーにレナトは適応するまでに時間がかかってしまった。

 レナトの良さは足元でボールを受け、ドリブルで仕掛けられるところである。
それが相手ゴール前で出せればもちろん問題はないのだが、ドリブルに集中するあまりパスが出せないという状況が生まれる。勢いレナトへのフォローが遅れ、それがチームの攻撃にブレーキをかける事となった。ただ、ボールを失わない技術は高いものがあり、チームメイトから一目置かれているのも事実。特にサイドハーフとして出場するレナトとは前後の位置関係になる事の多い田中裕介はレナトのことを高く評価する一人である。

 それは例えば、84分からの出場となった10節の名古屋戦でのこと。「終盤にレナトが入ってきて、新しい形が作れたのもいいと思う。ボールを失わないですしね」と田中裕介。首位仙台を下した13節の仙台戦後にも「(レナトが入ることで)楽になりますね。選手は特徴がひとりひとりありますから、それに合わせて周りが動き出せば、その選手も生きますしね」と述べ、守備面を含めた貢献について話している。

 5試合連続で先発出場した18節の広島戦を境に、25節の鹿島戦まではベンチからのスタートが続いているが、レナトがすごいのは、そうした状況でも腐ることがない点であろう。真面目にサッカーに取り組み、風間監督が求める精度とサッカーを実現しようと日々練習に取り組んでいる。

「自分の今のポジションを考えるとそれまでやってきたこととそんなに違うということはないですが、でも細かいところを見てみると違うところはあると思います。ですから自分もそういう、要求されている細かいところを修正できるようにして行かないといけないと思います」(レナト)

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 そうやって課題を意識して練習してきた成果が出つつあるのだと田中裕介は話す。

「レナトはだいぶ変わってきてますよ。見えてるものが増えてプレーの幅が広がっている。だからパスしてミスすることも出てきている。それまではパス自体がなかったですからね。パスミスするってことはそれだけ見えるようになっているんだと思います」

 チームメイトからのそうした言葉はさておき、レナトは常に前を向いている。「今修正しなければならない点は?」との問いかけに対し、次のような回答を残してくれた。

「うーん、たくさんあると思います。チャンスをたくさんつくりだすという事だったり、チャンスでゴールを決めることだったり。1対1では積極的に仕掛けてボールを失わない。徐々にやって行かなければならないところはあると思います。
どうするればスタートから試合に出られるようになるのか、考えてやっていきたいと思います。良いプレーをどんどん見せていかないと、そういう事につながらないと思います」

 ちなみにくどいようだが田中裕介はレナトが修正したいと口にする仕掛けについて、次のような賛辞を送っていた。

「あと、レナトがすごいのはドリブル。個人的にはJの中でも3本の指に入るようなドリブルができる時があると思ってます。それはドリブルがはまったときで、その時はあいつは止められない」。もちろんそうしたドリブルが常に出せるわけではない。だから田中裕介は「ただ」と言葉をつなぎ「それは紙一重のところもありますけどね」とも話していた。

 ドリブルがすごいが、紙一重のところでミスをすることもある。ただ、それがはまれば大きな武器になる。ドリブルでボールを失わないよう技術を磨き、それをゴールにつなげていく事が今の目標であり修正点である。レナトと田中裕介の二人の言葉をつなぎ合わせると、そういう評価になるのだろう。

 25試合を終え、レナトの得点は4にとどまる。チーム全体の得点数がそもそも伸びていないという事情はあるにせよ「フロンターレの10番」にとっては物足りない数字であろう。ただ、彼は前述の通りまだまだ修正すべき点が多いことを自覚している。そして、彼の性格でもあるまじめさで日々の練習に取り組んでいる。「プロになるのだ」という夢を叶えた努力で、風間サッカーに適応する日は来るだろう。もしそうなれば、レナトがゴールに絡むプレーも増えるはずだ。シーズンも残り少ない中、そうなる日が来ることを切に願っている。

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[れなと]

ブラジル1部のコリチーバ所属のアタッカーが加入。2011シーズンはブラジル2部で経験を積み、左足を駆使したテクニックとゴールセンスで飛躍的に評価を上げた。攻撃的MFでのプレーを得意とするが、フロンターレでは新エースとして高い得点力も期待されている。1988年10月4日/ブラジル、サンパウロ州生まれ。>詳細プロフィール

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