2012/vol.06
ピックアッププレイヤー:MF18/杉浦恭平選手
人は、2年間で、こんなにも変わるものか──。
川崎フロンターレに2年ぶりに復帰した杉浦恭平。
その落ち着いた表情も、がっちりとした体つきも、別人の様に変化した。
そうした変化には、理由があるはずだ。
移籍
静岡学園高校から2007年に川崎フロンターレに加入した杉浦。3年間フロンターレで経験を積んだが、リーグ戦の試合出場数は、わずかに「1」。優勝争いをするチームにあって、日々の練習、練習試合やサテライト、また年代別の代表に選ばれることもあったが、プロとして試合に出るために、杉浦は自ら移籍を申し入れた。
「3年間J1のチームにいられて、いい経験になりましたけど、とにかく試合に出たかったので、一度外に出て試合という経験を積みたいと思いました」
何チームか候補にあがったなかから、杉浦は自ら愛媛FCを選んだ。
「愛媛は期限付き移籍の選手も積極的に使うイメージがあったし、出られるだろうという安心感はなかったけど、修行の場としてチャンスを与えてくれるところだと思いました」
そうして、2010年の初春、杉浦は愛媛県松山市へと引越し、J2愛媛の一員となった。初めての地で、初めてのひとり暮らしである。静岡県浜松市出身だった杉浦は、高校時代から親元を離れての寮生活を送っていたが、フロンターレでも寮生活だったため、「ひとり」になるのは初めてだった。
不安や緊張も行く前は、あったが、それは全くの杞憂に終わった。松山は、路面電車も走るのどかなところで、どこか浜松に似た懐かしささえ感じさせるところだったし、愛媛FCのサポーターのどんな時でも「頑張れよ」と応援してくれる温かさはフロンターレサポーターに通じるものがあった。和気あいあいとしたチームの雰囲気もまた、フロンターレに似たところがあった。行きつけの食堂もいくつかでき、なんでも話ができる人間関係も生まれた。あっという間に新しい環境に溶け込むことができた。
もちろん、サッカーをする上での環境面は、J1のフロンターレとは雲泥の差があった。メインの練習場は人工芝だったので、怪我をしないようにスパイクではなくトレーニングシューズを履いて練習をした。さらには、芝生の練習場をいくつか転々とする日々もあった。練習着は自分で洗濯し、クラブハウスには風呂がなかった。だが、そうした環境面の違いも杉浦にとっては、とるにたらないことだった。
目的は、「試合に出ること」。
たったひとつだった。
そのために毎日規則正しい生活を送り、時には自炊をし、行きつけのお店で同じ時間に食事をとり、オフには、だらだらと過ごすことよりも、疲労を少しでも早くとるためにジムのプールに通うことを選んだ。
開幕前のキャンプの時、杉浦は、ゼロからのスタートに等しかった。
3年間、ほとんど試合に出ていなかったのだから、それは当然だとも言えるが、クロアチア人のバルバリッチ監督に、自分の特徴を知ってもらうため、試合に出るチャンスを掴むため、全身全霊をかけてキャンプに挑んでいた。
「練習でも誰よりも動くということをモットーにしていました。ここで試合に出られなかったら、自分のサッカー人生が終わっちゃう。せっかくチャンスをもらってやれるんだから全力で頑張ろうと思っていました」
そして、杉浦は開幕からレギュラーの座を自ら掴んだ。
2010シーズンは、35試合出場、3得点。
2011シーズンは、25試合出場、2得点。
4-4-2システムの中盤の左サイドや4-2-3-1の中盤の左を主に任された。
がむしゃらに、プレーした。
倒れる自分が嫌いだった
自分が思う自分自身と周りからの評価や印象にズレが生じるということは多々あることだ。
杉浦とは静岡学園高校時代からの先輩、後輩の仲である杉山力裕は、2年ぶりにフロンターレに復帰した杉浦のプレーを見て、変化を感じ取るとともに驚いていた。
「恭平は、技術の高い選手だけど、以前はどこか遠慮していた部分があったように思う。でも、今は得意の2列目からの飛び出しとかボールのないところの動き出しとか、恭平発信でプレーがつながっていくことも多くなりましたね」
「遠慮する人」という印象は、プライベートでは褒め言葉として登場することも多いが、プロサッカー選手としては、言われて嬉しい言葉では決してないだろう。
杉浦は、振り返れば両親にも学生時代から「お前は優しいところがある。もっと積極的にガツガツやりなさい」といわれることも多かった。杉浦自身は、一生懸命やっているつもりでも、周りにはそういう印象を与えてしまう。でも、結果的にそう見えてしまうのであれば、自分自身に原因があったのだろう、と今思えば受け止められるという。
「自分では遠慮していているつもりはなかったけど、そう言われるんなら、そういう面もあったのかな、と理解しています。
昔は、体も細かったし、ぶつかりあいを避けてたところもありました。フィジカルも足りなくて、当たったら倒れちゃう。足元だけでしかプレーをしていなかったと思います」
だが、当たり負けてしまう自分が、杉浦は嫌いだった。
だから、愛媛で試合に出られるようになった時、プレースタイルを変えた。
接触プレーもいとわず、自分から体も寄せ、そして、それでも倒れずゴールに向かっていった。それは、フロンターレ時代に日々、こつこつとトレーニングして蓄えていたパワーが実った証でもあった。
「フロンターレの最後のほうには、もう試せる状況にまでには自分のなかではなっていたので、愛媛では最初から倒れなかったし、むしろぶつかっていく感じでやっていました」
2010年の愛媛は、リーグ11位という成績だったものの、総失点数はJ2で2番目に少ないという数字が表している守備重視のチームだった。攻撃については自由にプレーできたが、チーム全員で守備についての役割があり、走ることが求められた。
「開幕戦からの数試合は、毎試合終わったら倒れるぐらいに疲れていました。足もつることもありましたね。それぐらいきつかったですけど、飛ばすだけ飛ばして、最初から全力でいっていました」
そうして迎えた第8節対横浜FC戦(ホーム)で、90分フル出場しての勝利を初めて経験した。GKの真正面ではあったが、惜しいシュートも放ち、もうそろそろではないかとゴールの予感も感じていた。
そして、第9節対福岡戦(ホーム)。
右サイドからのセンタリングに、味方選手と相手選手がつぶれた形になり、転がってきたボールに後ろから走りこんできた杉浦は、右足を振りぬいた。放ったボールはゴール右上に吸い込まれた。
プロ入り公式戦初ゴールが生まれた。
「やっと、プロになったんだな」
そう思えた。
スタンドには、愛媛に移籍してから初めて呼び寄せた両親の姿があった。
試合に出る喜び
2011シーズンは、愛媛で「10」番をつけることになった。
2010シーズンが終わり、もう1年愛媛でプレーすることを望んだのは杉浦だった。
「やっぱり1年を通して試合に出たということはすごく大きな経験になったし、それまで3年間まったく出ていなかったので、2年を通して自分の土台を作りたかったという思いがありました」
試合に出るようになれば、当然、生活のサイクル、プレー面でも質のあげ方、目標の立て方が変わってくる。
遠征も含めた移動や試合を中心とした1週間の生活サイクルのなかで、より自己管理には厳しくなったし、練習や試合でも「シュート5本を打つ」などといった目標を持って、クリアしていくことを続けた。
当たり負けないプレースタイルに変わったことで、プレーの質や幅も向上していった。以前の杉浦は、接触する前に足元でかわしていくため、プレーが遅くなることを感じていた。その必要がなくなったことで、「余裕」が生まれたのだ。
すると、次の課題が見えてきた。
「どれだけ丁寧なプレーをするのかが課題になりました。具体的にはファーストタッチが次のプレーにつながる位置に置けるかどうか。その質で1歩2歩ぐらい変わってきてしまうので」
まだ発展途上ではあるが、確実に成長している。
そういう充実感を得て、杉浦は、愛媛での2年間を終えようとしていた。
愛媛を離れる日──。
お世話になった人たち、行き着けのお好み焼き店で家族ぐるみでサポートしてくれたみんなが泣いてくれた。
フロンターレからひとり武者修行に来て、ここでダメなら後がないという精神的にも追い込んだサッカーだけの毎日のなか、彼女らがいたから寂しさも感じなかった。
ある時、言われた言葉が杉浦を励ました。
「普段は優しい子なのに、試合になると変わるのね。サッカー選手なのね」
以前は、周囲から「遠慮しないで、もっとガツガツいったらいいのに」と言われていた自分。それが、正反対の印象を与えるようになっていた。
素直に、うれしかったし、愛媛での自分を支えてくれた人たちに感謝の思いが沸いた。
再び、川崎へ
久しぶりにフロンターレに戻ると、先輩たちの反応は、ひとこと。
「大人になったな!」
18歳のとき、62kgだった体重は、72kgにまで増えた。
フロンターレに在籍していた頃に知り合い、愛媛に移籍してから半年後、交際が始まった女性と2012年1月11日、杉浦23歳の誕生日に入籍したことも大きかっただろう。
「責任をもたなきゃいけないし、サッカーをより頑張ろうと思っています」
愛媛での2年間、試合に出て、勝つ喜びも負ける悔しさも味わった。どしゃぶりの雨のなか、前半0対2で負けていた試合で、後半逆転勝利したとき、「サッカーは何が起こるかわからない」という感動で満たされた。フロンターレにいた3年間で、チームは何度も優勝争いをしていたが、そこに加われなかった杉浦は、そうしたギリギリの戦いでの感情を「体感」することができていなかった。
そして何より、考え方が最も大人になった、と自分自身でも感じることができた。ひとりで自覚をもって、向上心を持ち続け、サッカーにまい進する日々に、負けなかったという自信──。
それは、以前の自分に対する、叱咤の意味も含まれていた。
フロンターレでの3年間で、試合に出るチャンスはほとんどなかった。でも、毎日のトレーニングに対して、真面目に取り組んでいた自負もあった。
それでも、と杉浦は思う。
「以前の自分は、まだまだ甘かった。確かにチャンスも少なかったし、でも、腐らずに頑張ってたけど、もっと頑張れたんじゃないか。もっとやれることがあったんじゃないかと思いますね。例えば、いいプレーをしたら満足するんじゃなくて、それがその日だけで終わるんじゃなくて、毎回毎回同じようにできるようにもっと頑張れたんじゃないかって」
「かつての自分を叱ってあげたいですね」といって、杉浦は笑った。
その笑顔もまた、2年前に見た表情とは、違った落ち着きがあった。
「J1で、フロンターレで結果を残したいというのが今、自分が一番目標にしていることで、それは愛媛にいた間もそのことをずっと思って強い気持ちでやってきました。泥臭いゴールでもいいので、J1初ゴールを決めたい」
「そして」と、杉浦は続けた。
「そのためにしっかり練習から目標をもって、取り組んでいれば、いざ試合に出たときに平常心でやれると思うので、それを続けていきたい」
profile
[すぎうら・きょうへい]
2年間の愛媛FCへの期限付き移籍から復帰。テクニック、スピード、運動量とバランスのとれたMF。愛媛FCでは背番号10をつけて主軸として活躍するなど、着実に成長を果たしている。公式戦で養った感覚や経験を生かし、再びポジション争いに挑戦する。1989年1月11日/静岡県浜松市生まれ。177cm/72kg。>詳細プロフィール