2011/vol.11
ピックアッププレイヤー:MF23/登里享平選手
ルーキーイヤーは、鮮烈なデビューを飾った。
苦悩の2年目。
そして、サッカー人として成長を遂げた3年目の今年。
ノボリの真実とは──。
2011年3月、今シーズンのJリーグ開幕。
ノボリにとって、3回目の開幕戦は、リーグ戦で初となるスタメンで幕をあけた。そしてチームはノボリのゴールも含めた2ゴールで開幕戦を勝利で飾った。
今シーズンを迎えるに当たり、ノボリはある決意を固めていた。
「1年目は思い切り、自分のプレーを出すことができました。でも、2年目は結果も出せず、チャンスを掴むこともできず、自分のいいところも出せなかった。だから、3年目の今年は、自分の得意なところを出そう。昨年悪かった分、やってやろうという気持ちでした」
キャンプから調子のよかったノボリは、練習試合でも1本目からスタメンに抜擢された。途中、山瀬が戦列に復帰すると、2本目からの出番となることもあったが、そのことによってモチベーションが落ちることはなかったし、アピールを継続していこうとプレーに集中することができた。そして、掴んだ開幕スタメンだったのだ。
2009年、香川西高校から川崎フロンターレに加入したノボリ。小柄ながら、スピード溢れるドリブル突破で等々力をあっという間に沸かせる存在となった。6月にリーグ戦でデビューを飾ると、10月には初ゴールも決める。勝ちパターンで投入されることが多く、試合後半になると、ノボリのフレッシュさがチームを活性化し、ドリブルで何度もサイドを駆け上がってチャンスを作った。
勢いがあった。
ところが、である。
さらに試合に絡もうと意気込んだ2年目は、空回りのシーズンとなってしまう。というより、ノボリは「ボールが来るのが恐かった」という最下点にまで落ちてしまっていたのだ。
2010シーズン、初年度以上に試合に出場し、結果を出そうと意気込んでいたノボリだったが、「思い切りのよい」ドリブルは1年目程に輝きを放つことはなく、徐々に出番が減っていった。
ノボリが、ポツリポツリと話し出した。
「僕、2年目はチャンスやと自分でも思っていたんです。ジュニーニョが怪我をしていたこともあったし、出番があるかなと思っていました。でも、勝ちパターンで試合に入ることが多かった1年目にくらべ、2年目は負けている試合で流れを変える場面が多くて、そういう難しさもありました。それに…」
原因は、自分にあるといまならわかる。
それを気づかせてくれたのは、チームの仲間たちだった。
2011年3月──。
ノボリは体のキレも調子もよく、開幕に向けた練習試合でもケンゴからのスルーパスを受けてチャンスを作るなどチームに貢献できるプレーが増えていた。
ある練習試合後、声をかけられた。
「ノボリ、調子いいね」
ケンゴだった。
「そうなんですよ。何で去年は調子悪かったんですかね」
すると、こんな答えが返ってきた。
「このくらいでいいだろうっていう感じで入っちゃったでしょう?」
ノボリには、それは違いますとは、言い切れなかった。
「1年目がよくて、サポーターの方々も期待してくれたと思うし、自分も自信がついてそれ以上の結果を求めていました。もっと活躍したいのに自分を出せなくて自分自身にがっかりしていたんですね。ケンゴさんからのひとことは、振り返ってみると、環境に慣れてしまったところがあったのかな、と。それはプロとしてやっちゃいけないことなのに。貪欲さが足りなかったし、環境に慣れてしまった。それから、試合の中で結果を求めていましたけど、それまでの準備という面で欠けていたのかなと思います」
試合に出たい。チームに貢献したい。活躍したい。そういう「結果」を求めていたノボリだったが、結果を出すために必要な常日頃からのトレーニングや準備が100%のものだったのか?
ノボリは、昨年の自分に対して、「YES」とは言えなかった。
ただ、救いもあった。
そのことに手遅れにならずに気づけたことだ。
昨年の後半戦、出番を失っていったノボリは、周りがみてもわかる程に、焦りを感じていた。そういうノボリの姿を見ていた、鬼木達コーチや今野章コーチもその様子に気づいていた。
ある日、鬼木は、現役時代のこんなエピソードを話してくれた。
「試合に出られなくて、モチベーションの維持が難しい時に限って、ふとチャンスが来ることがあるんだよね。でも、そういう状況で試合に出てもチャンスを活かせなくて結果が出せなかった。そういう痛い思いをしてから、いつ来るかわからないチャンスに向けて常に準備するっていうことができるようになったんだよね」
ノボリには、心に刺さる言葉だった。
「まったくその時の自分の状態と同じでした。オニさんが自分の失敗談を話してくれて自分のことに気付けた。昨年は、自分の持ち味が出せなくなって、ミスをするのが恐くなって、最悪の時は、ボールを受けたくないという悩みになってしまいましたからね。そんなことは、初めてでした。それでは、チャンスもつかめるわけがないし、例えチャンスをもらっても結果が出せるわけない。ちょうど、ガンバ戦でクスくんがハットトリックを決めて、ますます自分はやばいなぁと追い込まれていました。刺激を受けるというよりも、羨ましかった」
鬼木の言葉から「前向きに変わろう」と思ったノボリは、高校時代の自分の原点とも言うべき体験も思い出していた。
「チャンスは平等にない。そのチャンスをつかむかどうかは自分次第だ」
大阪で生まれ育ったノボリは、夢だった選手権出場を現実のものとするために、高校進学時にふるさとから離れた帝京高校のテストを受け合格していた。
だが、両親への負担も大きかったため別の選択肢を探し、少年時代に通っていたスクールのコーチから薦められた香川西高校に進学することになる。その決め手となったのは、大浦恭敬監督の熱心な誘いだった。
大浦監督がノボリに与えた影響として、最も大きいことのひとつは、「サイド」へのコンバートだ。1年時から試合に出ていたノボリだが、その年の夏に左サイドに固定された。大浦監督は、ノボリの瞬間的なスピードの速さをすぐに見抜いた。またプロになりたいという気持ちを持っていたこともあり、フォワードやトップ下ではプロになる確率はほとんどないが、左のワイドかサイドバックであれば、可能性があると考えた。それには根拠があった。
「ノボリは、左利きですが、モノを書く時は右手です。だから、効き視野も右なのです。つまり、左サイドでプレーする時、左効きで右視野をもっていれば、有利になるというのが私の持論です。それが、まさにノボリだったのです。彼は天狗にならずに、信用して取り組んでくれました」
そう大浦監督は、述懐するが、ノボリには忘れられない苦い思い出がある。
最初から慣れないポジションでうまくいったわけではなかった。監督からは、ボールをもったら全て仕掛けるように指示が出ていた。まだ体が出来上がっていなかったノボリは、仕掛けては倒れることもあった。それでも、監督は、どんどん攻撃を仕掛けるように、ドリブルをし続けるように指示を続けた。
だがノボリは、ある試合で、言ってはいけないひとことを発してしまう。
「うるさいねん」
試合後、ノボリは当然、監督から怒られた。そして、反省した。
「自分でもうまくいっていなくてイライラして、それで爆発してしまいました。監督には本当に育ててもらって、尊敬していましたが、期待に応えられない自分が情けなかったです。だから、怒ってもらって、その期待にもっと応えたいと思うようになりました」
それからのノボリは、左サイドとして頭角を現し、やがて川崎フロンターレスカウトの向島建の目にとまることになる。サイドへのコンバートが、プロへの道を開いてくれたのだ。
そして、時は経て2010年の麻生グラウンド。
鬼木からの言葉で、自分の原点を思い出したノボリは、そこから練習に対してもモチベーションを高く取り組むことができるようになった。
そうした積み重ねがあったからこそ掴めた今季の開幕スタメンだったのである。
そして、戦いは2011年シーズンへ──。
シーズン途中で、最も得意な左サイドで出るようになったノボリは、より一層自分の持ち味を出せるようになった。
その理由のひとつには、開幕では右サイドで出場したが、シーズン途中で左サイドにポジションチェンジしたことが挙げられる。ノボリが右に入った場合、ケンゴというパサーとのコンビネーションで中に抜けていくプレーが目立ったが、そこから先の自分自身のプレーについて「恐さが足りていなかった」と振り返っている。左サイドに入った場合には「見える景色が違う」というように、自分の形やドリブル突破がしやすい環境にあるのだろう。より、ノボリの持ち味が活かされている。さらには小宮山とのコンビがフロンターレの新たな形として生まれた。
「コミさんとの連携は手ごたえがありますし、どっちにパスを出すべきだったかなど細かい話を練習からするようになりました。コミさんも高い位置にいるので、縦並びにならずにコミさんが上がったら、僕も追い越してという流れや、おとりの動きをしたりとか」
そこまで話して、少し間を置いてからノボリが続けた。
「こういうコンビネーションって、1,2年目はレギュラーメンバーと一緒にプレーする時間も試合の中で少なかったので、試合に出たからこそわかるもの。選手の特徴も試合を通してさらに理解できて、自分も味方も活かすことをもっと意識していきたいです」
それからのノボリは、チームメイトとのコンビプレーや見習うべきところ、もっと質をあげたい部分といった点を絶え間なく話し続けた。
例えば、山瀬功治の体のケアについて、子供の頃からの憧れだった稲本とチームメイトになった時の驚きと喜びについて、例えば小宮山とのバランスやコンビネーションの課題について、例えば、中村憲剛が自分にくれるアドバイスのありがたさについてなど…。そして、そうした悩みの質が、昨年とはまるっきる変わっていることに幸せを感じていた。
「昨年は結果を求めて自分を出せない苦しさが悩みだった。なんでうまくいかないんだろうという漠然とした不安や心配、悩みでした。でも、今は試合に出るなかでコンビネーションをどうやってもっと高めたらいいか、試合でミスした部分があったら、次の試合でなくそう、練習からうまくいったことも別の選択肢はなかったのかとかそういう悩みに変わりました」
そして、「結果を残さないとわからない職業なんですよね」とキッパリと言った。
そんなノボリが今、課題としていることはプレーの波をなくすことだ。
「安定したプレーをして、チームに貢献することが目標。でも、例えばケンゴさんとかはプレーは常に安定しているから、どうしたらチームを勝たせることができるかとうところに全ての意識がいっていると思うんです。自分はまだ悪いところが見つかることが多いから悩みのレベルがどうしてもそうなってしまう。安定したプレーができれば、監督も使いやすいはず。だから、シーズン通していい準備をしていかなければいけないんですよね」
2012年はロンドン五輪イヤーでもある。プロ入り前から自分がその「年代」に入っていると意識してきたノボリにとっては、クラブの優勝とともに掲げている大きな目標だ。昨年、アジア大会で優勝し、安藤、實藤、薗田らとともにメンバーに選ばれていたノボリだったが、出番は少なかった。日本に帰国し、優勝報告の凱旋を行ったが、喜ぶチームメイトの横でノボリの心は晴れなかった。
「悔しかったです。関さんが監督だったから自分のいい時を知っていてくれていたから、選ばれた部分もあったかもしれないし、チームメイトが活躍して、自分は出ていなかったから、ほんまに悔しさしか残らなかったです。だから、次は誰もが認めるぐらいの存在になって関さんに選ばれるように努力せなあかんなと思います」
試合に出て結果を残すこと。そのために常にトレーニングで100%の準備をすること。
昨年のスランプを乗り越えたノボリは今、強くなって、自分を客観視できるようになった。だからこそ、今はチームに貢献できる自分でありたい。応援してくれる人の気持ちに応えたいと思っている。
「昨年は申し訳なかったから。サポーターが喜んでくれるのが一番うれしいし、すごいモチベーションになる。だから、勝つことが一番なんです」
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[のぼりざと・きょうへい]
スピードに乗ったドリブル突破でライン際を駆け上がり、正確無比なクロスでゴールを演出する元気印のレフティー。ワンアクションでマーカーを抜き去る自分の形を持っているのも魅力のひとつ。ロンドン五輪世代としてU-23日本代表メンバー定着を狙う。1990年11月13日/大阪府東大阪市生まれ。 >詳細プロフィール