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ピックアッププレイヤー

2010/vol.09

ピックアッププレイヤー:GK21/相澤貴志選手

ひとつしかないポジション。
それが、GKに課せられた運命であり宿命だ。
そのたったひとつを掴むために。
相澤貴志の挑戦の日々。

1  2010年7月14日。
 日本中が熱狂した南アフリカW杯が幕を閉じ、Jリーグが再開した。

南アフリカで日本代表のゴールマウスを担っていた川島永嗣は、川崎フロンターレからベルギー2部リーグリールセに移籍。

この日、大宮アルディージャとの一戦で、フロンターレのゴールを守ったのは相澤貴志だった。

 引き分けに終わったものの、相澤はゴールを一度も割らせることなく試合を終えた。試合後、相澤は充実した表情でこう語った。

「試合に入るいい準備はできていた。結果、勝てなかったのは残念だったが、失点ゼロというのはチームにとっても僕自身にとっても大きい。ひとつ課題をクリアすることはできた。今日はフロンターレの選手として数年ぶりに試合に出られた。集中を切らさずにプレーすることができた。やっと帰ってきたという感じ。アップの時から声援をたくさんもらい、鳥肌がたった。試合後、エイジからはナイスキーパーと声をもらった。言葉は少ないけれど、お互いに頑張ろうという気持ちがある。次のアウェイでどう戦うかがチームとしての最大のテーマ。今日のディフェンスを維持しつつ、粘り強く戦って勝点を取りたい」

 相澤は冷静にそう試合を振り返ったが、とても大きな転機となる試合だったはずだ。

 フロンターレでプロ選手となり11年目。
 相澤が辿って来たGK人生を振り返ってみたいと思う。

 相澤貴志は、2000年に練習生としてフロンターレに加入した。

 そのGK人生は、決して順風満帆ではなかった。
 小学校、中学校と新潟県有数の名門校に通っていた相澤が最初に取り組んだスポーツは剣道だった。中学で始めたサッカーも最初のポジションはFW。GKになったのは、高校時代の監督からの「キーパーをやってみないか?」というひとことによるまったくの偶然の出会いだった。

 予定していたサッカー推薦での大学進学が叶わず、その3日後、監督のつてでフロンターレの門を叩く。練習生からのスタートだった。

 相澤がフロンターレに入って一番最初に影響を受けた人物は、最も身近な存在であった浦上壮史(現・清水エスパルスGKコーチ)だった。すでにベテランの域に達していた浦上だったが、練習には若手以上に若手らしいと言うか、全力投球なのはもちろん、練習後も若手選手と一緒になってシュート練習の相手をする。

「フロンターレに入ってすぐに一番見習うべき人だなと思った。練習に対する姿勢ですよね。そういうものに自分も引っ張られたし、そういう印象は今でも残っていますよね」

 相澤が初出場を果たしたのはプロ2年目となる2001年のこと。その後、再び出番が訪れるのは2005年。2005年といえば、フロンターレは2度目のJ1昇格を果たした年だ。リーグ戦最後となるガンバ大阪戦、目の前でガンバに優勝を決められる悔しさを相澤はGKとして味わった。そして、2006年も21試合のリーグ戦に出場している。

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1  だが、翌2007年、川島が名古屋グランパスより移籍。相澤の出番は、川島が不在だった試合のみに限られた。その年のオフ、相澤のもとに当時J2だったセレッソ大阪よりオファーが届く。悩みはしたものの、環境を変えることはプラスに働くのではないかと移籍を決断する。

「その前の年はリーグ戦で出ていたわけだし、自分もリーグ戦に出たかったし、必要としてくれるチームがあると知ってやってみたいという気持ちになりました。もちろん、フロンターレには長くいたし、けっこう悩みはしましたけどね」

 知り合いが誰もいない馴染みのない大阪という土地へ移籍だったが、チームの明るい雰囲気もあり、自然とチームメイトにも大阪という土地にも馴染むことができたと相澤は振り返る。背番号「1」をもらい、開幕戦のゴールマウスに立ったが、結論から言えば、シーズンを通して自分自身に合格点をつけることはできなかった。

 この年、セレッソはJ1昇格を目指していたが、怪我人も多く、なかなかメンバーが定まらないなか過酷な日程のJ2リーグを消化していた。勝てない状況が続くと、GKも入れ替わり、相澤が26試合、山本が16試合と、ふたりのGKが入れ替わりでピッチに立つことになった。

「試合が多く、自分自身のコンディションも難しい面があったし、今思うとなかなか自分が思うプレーができなかったところもあったと思います。昇格という結果も出なかったわけですし。もちろん、本当はチームと一緒に自分も成長していけたらいいなと思っていたし、学ぶ面もいろいろありました」

 2009年、相澤はフロンターレに復帰した。
 チームは、代表にも定着するようになった川島が正GKを務めていた。
 再び、いつ何時、自分が出ることになってもいいように、トレーニングの日々が始まった。

 そして、2007年の時のように、川島が不在で臨むナビスコカップ決勝トーナメント横浜F・マリノス戦。自分がゴールマウスに立つものだと相澤は思っていた。だが、選ばれたのは、若きGK・杉山力裕だった。
 ふたりのどちらが選ばれるのかは、前日の紅白線までふたりとも知らされていなかった。Aチームのビブスを渡されたのが杉山で、それが答えだった。相澤は、試合前日のその日、「すぎちゃんなら、いつも通りにやれば大丈夫だから」と声をかけている。そして、杉山はそのことを振り返ってこう言う。

「そういう言葉をかけられるザワさんの器の大きさを感じました」

 相澤には、当然試合に出たい気持ちが強くあった。だが…。
「もちろん悔しかったですけど、チャンスはみんなに生まれるわけじゃないし、それをもらった人が頑張ればいい。出るって決まった以上、そこで頑張ってほしいなと思いました」

 何かを変えなければいけないと相澤は思い始めていた。
「昨年、自分自身の結果が出なくて、やっぱりそのままではいけないと思いましたよね」

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 そして迎えた2010シーズン。
 決定的な出来事が相澤を待っていた。
 ベンチ外という事実、である。

 自分が変わらなければいけない、という思いが相澤を満たしていた。

「ベンチにも入れなかった時に、このまま終わるんじゃもったいないと自分でも思ったし、根本から何かを変えなければいけないとシーズン当初に思いました。いままでそこまでの状況になったことがなかったし、セカンドGKだった時も状況を維持しつつ、いつチャンスが来てもいいように準備しようとトレーニングしてきた。そうしているうちにやっぱり足りないものが出てきたんでしょうね。実際、試合に出てみると出て成長する部分が一番大きいというのがわかるし、そういうところもあったと思います」

 人は、置かれた状況で、自分自身がより冷静に見えることがある。相澤は、2010年、自分を変えた。ベンチに入れなかった時期には、体幹トレーニングも取り入れて、体づくりも見直した。やがて、コンディションや動きが徐々にイメージに近づいていった。

 イッカGKコーチとのトレーニングも日々でも、それは実感できるようになっていた。試合に出るための準備に手を抜かず、さらに意識を高くもち、日々を過ごしていた。
「GKの練習は試合中に1本起こるかどうかわからないことに対する準備ですよね。いろんな状況が試合の中では起こりうるから、その練習でやってきたことを当てはめるという感じですよね」

 並々ならぬ決意で過ごし、川島が移籍、その時期に杉山が怪我をしていたこともあり、ワールドカップ中断期間明けの大宮アルディージャ戦、やっと待ち望んだ場所に帰ってくることができた。

 川島に代わって出る相澤に対し周囲からの注目度は当然ある。そうしたプレッシャーをどう受け止めていたのだろうか。

「でも、シーズン当初の自分の状況を思えば、試合に出られるような位置にいなかったわけじゃないですか。だから、せっかくもらったチャンスなんだから楽しんでやろうとしか思わなかったですね。おかげで注目されていたこともあるし、注目してもらっているのはプロ選手としては嬉しいことですからね。久々にJ1のリーグ戦にも出られるし、フレッシュな気持ちでした」

 相澤は、心から試合を楽しみにしていた。

 それを決定づけたのは、アップに出ていった時だ。
 GK練習が始まる時、等々力のトレーニングルームから走ってバックスタンドのGゾーンまで行き、コールを受ける。その瞬間を久しぶりに味わい、気持ちは高ぶった。
「やっぱり感動しましたよね」

 イッカGKは、相澤にこう伝えていた。
「落ち着いて、自信もってやれば大丈夫だから」

 イッカは、相澤にトレーニングを通じて「自信」を植え付けることが自分の役目だと思っていた。

「ザワは、元々能力が高い選手です。ただ、時折プレーがバタバタしてしまうことがありました。彼には、能力は高いものをもっているから、あと必要なものは落ち着いてプレーすることと自信だと言ってきました。GKにとってメンタルはとても重要なものです。
エイジが移籍し、ザワにプレッシャーがかかることは私もわかっていました。プレッシャーというのは自然に出てきてしまうものです。それを消化して自信をもってゲームに入っていってくれたと思います。それは、彼自身が課題を克服したからです。試合に出られることを幸せに感じて、彼はいまプレーできていると思います」

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 大宮戦から始まった相澤のチャレンジ。
 チームは無失点で終える試合も続き、それまで課題だった失点の多さを克服しつつあった。当然、相澤のパフォーマンスによるものもあっただろうし、結果を出すことに貪欲になっていたのも事実だろう。
「中断期間前から外から見ていて失点が多いのは気になっていたし、なんとかしたいという気持ちもありました」

 実際にスーパーセーブでチームのピンチを救った場面も何度もあったし、トレーニングの成果が出て、それまでの自分から脱皮していることを相澤自身も感じていた。試合出るという経験が自分を成長させてくれることも再確認できた。

「体のバランスもよくなたせいか、ボールをしっかり待ってとれるようになったし、軸がしっかりして自分でもイメージ通りのプレーができるようになったと思います。試合に出続けて、感覚はどんどんよくなっていったし、流れを読めるようになった、というのはありますよね」

 2008シーズン、セレッソ大阪で「自分の思うようなプレーのイメージに近づいてなかった」と振り返ったことを考えると、成長の証が見える。イッカGKコーチも同じことを感じていた。

「毎試合出て、よりよくなるだろうという自信もついてきました。GKはトレーニングしてきたことを自信をもってグラウンドで表現することが大事で、今は実際チームも彼を信じることができています。落ち着いてこれからも続けていけば、さらに自信を高めていけるはずだと思います」

 試合に出るたびに自分の成長も感じられ、チームに貢献できている実感も相澤の中で膨らんだ。ただ、プロ選手である以上、それで満足するわけにはいかない。

「やっぱり試合に出られているわけだし、目標もってやらないと今までと一緒だから、目先の試合への集中というのもあるけど、その先にタイトルだったり日本代表だったり、そういうものを意識してやらないと成長はないですよね。出たことが最終目的じゃないですからね」

 実は、このインタビューの中で、相澤はあまり過去のことを振り返ることをしたがらなかった。なぜならば、今、相澤にとってチャレンジの途中であり、振り返るのは結果を出してからという気持ちが強いからだ。

「まだ、今の時点では試合に出たという事実だけだから、振り返れないという気持ちはありますね。結果が出た後だったらいろんなことが話せると思う。だから…」

 そして、相澤は一層の力を込めた。
 「結果がほしいんです」

 10年間のプロサッカー選手としての生活のなかで、今年ほど自分を変える決意をしたシーズンはなかった。そして、チャンスを掴んだ。だからこそ、結果がほしい。その時、きっと相澤は、またさらなる上をめざして新たな目標をもって成長を続けていくのだろう。

 自分がGKとしてフロンターレで積み重ねてきた。その証を証明するために結果として残したい。
 その思いが彼の最大のモチベーションになっている。

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[あいざわ・たかし]

ハイボール処理や1対1の局面で勝負強さを発揮する大型GK。フロンターレで10年目となる今シーズン。準備を怠ることなく地道に練習を積みながらハイレベルなポジション争いに名乗りを上げる。1982年1月5日、新潟県新潟市生まれ。190cm/84kg。
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