2008/vol.10
ピックアッププレイヤー:MF11/ヴィトール・ジュニオール選手
かつて、これほどまでに来日直後に溶け込んだブラジル人選手を私は知らない。
ヴィトール・ジュニオール。
ブラジルからやってきた勇者。
彼がフロンターレにやって来るまでのストーリー。
衝撃
2008年7月21日。
埼玉スタジアムで行われた浦和レッズ戦。来日して初めてとなる試合にヴィトールは、臨んでいた。試合前日に本人が語ったところによると、直前に在籍していたサントスでここ数ヵ月試合に出るチャンスに恵まれず、実戦から離れていたためコンディションはまだ100パーセントではないということだった。
ところが、である。ピッチを縦横無尽に駆けたヴィトールは、この試合でフロンターレの貴重な3点目を叩きだして、勝利を決定づけたとともに守備も厭わない献身的なプレーで、チームメイトもサポーターの心も初出場にして掴んでしまった。
試合後、ヴィトールはこう語った。
「とてもうれしいです。僕は、タイトルを獲るためにフロンターレにきました。その夢に少し近づけました。みんなに感謝したい。対戦相手をリスぺクトする気持ちを忘れず、勝つためのメンタリティーをもってベストを尽くしていきたい。そして、サポーターにも期待してもらえる存在になりたい」
多くのチームメイトたちが、少しの驚きをもってヴィトールについて話していた。
「あんなに速いと思わなかった。ヴィトールからボールが出れば、ボールの出所がひとつ増えるのは俺にとって大きい。ぶっつけ本番でこれだけやれるとは思わなかった。守備もやってくれているのも大きい」(中村憲剛)
「すごくいい選手。タメも作れるし、リズムもある。サイドの僕としては、あそこでタメを作ってもらえるとプレーしやすいですね」(山岸智)
「ヴィトールが入ってから紅白戦は実質1回しかやってなかったけど、ある程度できることはわかっていた。でも、守備をあれだけやってくれるとは」(伊藤宏樹)
1試合目にして、ヴィトールは自分自身をアピールし、結果を出してのけた。
生誕
ヴィトール・ジュニオールは、ブラジルのリオグランデ・ド・スル州にて3兄弟の長男として生まれ育った。6歳まで、ヴィトールは両親が仕事で忙しく祖父母とともに生活していた。やっと両親にも少しの余裕ができ一緒に生活ができることになったのだが、祖父母もかわいい孫と離れるのは寂しがった。「離れたくない」という祖父母の気持ちが強く、結局、同じ敷地内で皆で一緒に暮らすことになった。ヴィトールにとっては、愛情に包まれて貧しくも心豊かな少年時代だった。
ヴィトールは、とにかくサッカーが大好きで、外でボールばかり蹴っていた。暗くなるまで帰ってこない息子を、母はいつも探しにきたという。
ちょうどその頃、転機が訪れた。インテルナシオナルの下部組織に入ったのである。実は、ヴィトールの父もこのチームに17歳まで所属していた。だが、父は志半ばでサッカー選手になる夢を諦めなければならなかった。だから、生まれた息子にその夢を託したのだ。父は、ヴィトールに自分が知りうるサッカーの楽しさも技術もすべて教えた。
父からの教えもあり、小さい頃から卓越したテクニックと広い視野をもっていたヴィトールは、インテルナシオナルでも評判の選手になった。ついたニックネームは、「セカンド ロナウジーニョ」。ちなみに、その人はヴィトール憧れの選手である。実は、ロナウジーニョとは家が近く、オフシーズンにはよく一緒にボールを蹴ることもあった。コンサドーレ札幌に所属していたことがあるロナウジーニョの兄のアシスとも親しく、アシスの息子とヴィトールの弟は、インテルの下部組織でともにプレーしていた。ヴィトールにとっての夢のひとつは、小さい頃からの憧れのロナウジーニョと同じチームでプレーすることなのである。
挫折
ヴィトール少年は点もよく決めたし、アシストも得意だった。だが、ヴィトールは11年間在籍したインテルナシオナルで、ついにはプロデビューを果たすことができなかった。その理由は、体が小さかったことにあるのだという。ヴィトールは、自分がぶつかった壁についてこう振り返る。
「僕は、プロには将来なれないと言われていたんです。ブラジルの南部は体が大きくてパワー重視だったので、体が小さかった僕にはハンディがありました。絶対プロは無理だと思われていたけれど、僕は夢をあきらめませんでした」
「大柄でパワー重視」というインテルサッカーの伝統の前には、どうすることもできなかった。事実、たくさんの子どもたちがインテル入門を望んだが、体が小さいという理由で、たとえ巧い選手でも門前払い同様で断れられることさえあった。とはいえ、ヴィトールの場合は6歳のときからチームにおり、誰もが小さなヴィトールのテクニックの巧さは知っていた。だからこそ、11年間も在籍することができたのだ。
ところが、17歳頃になると、より身体能力の差が開き始める。ヴィトールは徐々に試合での出番を失っていった。そして、ヴィトールは父と相談し、長い間プレーした愛着あるインテルから離れる決意をした。辛かったが、夢を叶えるためには仕方のないことだった。2005年にクルゼイロに期限付き移籍をすることになった。
転機
プロデビューは18歳のときのこと。ヴィトールは、うれしかった。プロになれないと言われ続けた自分は、努力だけは惜しまなかった。父も自分にテクニックを授けてくれた。「アシストだけじゃなくシュートも打つように」と言われてからはゴールも取れるようになっていた。ただ単に90分動くだけではなく、集中して周りをよくみてプレーする感覚も掴んでいた。そうした地道な日々が実り、やがてプロのピッチに立つまでになった。家族をこれからはサポートしていける立場に自分がなったことが、何よりうれしかった。
それからのヴィトールはフロンターレにやってくるまでの3年間、いろんな経験を積んできた。2006年にはクロアチアのディナモ・ザグレブに移籍。その後、スロベニアのコペルで3ヵ月プレーをし、ブラジルに戻る。スポルチ・レシフェでは州の大会で優勝してヴィトールはMVPに選ばれる活躍をした。ヴィトールがゴールを決めるシーンがブラジル中に放送されたことで、多くの人が目にとめることになった。さらにはブラジル選手権でサントスと試合し、4対1で勝利。ここでもヴィトールはアシストをするなど目立った動きをした。そのサントスの監督だったルシェンブルゴがヴィトールを気に入り、オファーを出したのである。2007年シーズンはサントスでレギュラーとして活躍し、大会準優勝も果たしている。レナチーニョともチームメイトとしてともにプレーしていた。
だが、2008年になってヴィトールは、落ち込んでいた。なぜなら、ルシェンブルゴの後任となったレオンはヴィトールを起用しなかったからだ。試合に出たいが、出してもらえない。そういうジレンマや葛藤があったとき、あるオファーが舞い込んだ。遠い日本からのものだった。「やってみたい」というのがヴィトールの気持ちだった。
実は、フロンターレに縁のある選手とヴィトールは幼なじみであり車で15分の距離に住んでいた。1999年にフロンターレに在籍したティンガである。
ティンガは当時、J2だったフロンターレで「10」番をつけてプレーをし、J1昇格に多大な貢献をした選手だ。技術はもちろん一生懸命プレーする姿勢や明るいキャラクターはサポーターからも絶大な人気と信頼を得ていた。何よりティンガもフロンターレと日本を愛していた。その後、ティンガはブラジル代表にも選出され、現在はドルトムントで活躍している。
ヴィトールは、ティンガにフロンターレからのオファーについて話した。ティンガからは迷いのないアドバイスが返ってきた。「日本に行くかヨーロッパか、ブラジル国内での移籍か…。そういう点を悩むのは必要かもしれないが、フロンターレがどういうクラブかという点で悩むのはナンセンスだ。恐がらなくていい、まったく心配する必要のない、安心してプレーできる素晴らしいクラブだ。フロンターレに所属していた自分が言うんだから間違いないだろう」
兄のような存在の先輩に背中を押されたヴィトールは、日本でチャレンジしたいという決意を両親にも話した。母は、こう言って送り出してくれた。
「離れて寂しいけど、まずはあなたの気持ちを一番大事にしなさい。日本に行きたいなら家族は全力であなたを応援するから」
飛躍
フロンターレにとって、ヴィトールは最初から獲得を見据えてリストアップしていた選手ではなかった。ところがブラジルに渡った庄子強化部長と向島スカウトの目に文字通り飛び込んできたのが、ヴィトールの俊敏な動きだったのだ。実は、アクシデントもあった。ブラジル滞在期間最後にサントスの練習を訪れる予定だったのだが、その直前の試合でサントスがクルゼイロに0対4で大敗し、サントスはレオンの進退問題に発展していた。
結局、そのままレオンが解任となりその騒動のため、予定していた練習視察がキャンセルになってしまったのだ。とはいえ、やはりヴィトールの能力はチームに必要だと判断し、帰国後、本格的に獲得に乗り出した。その判断は正しかった。というより、彼の性格のよさや順応性、適応能力は期待以上のものだったと言える。
テセはヴィトールについて、こんなことを話していた。
「すべての攻撃の起点になれる選手。最初からパスを惜しみなく出してくれたことも大きかった」
ヴィトールは、サッカー大国ブラジルからやってきたが、最初からフロンターレの選手たちを「認めている」のが伝わってきた。テセの言葉からもわかるが、受け手が自然にもらえるパスを出す。しかも、それが互いの特徴をまだ探っている合流すぐの時期から実戦していたことがヴィトールの凄さだろう。実際に、来日直後に聞いた次の話から選手の特徴をすぐに掴んでいたことがわかる。
「すぐ日本人と仲良くできたのは、僕の性格かもしれない。でも、サッカーにおいてすぐに馴染めたのは、フロンターレの選手たちがいい選手で、プレーの質も高かったのがその理由だよ。最初の練習で同じチームだった大橋とはいろいろコミュニケーションをとりながらプレーしたけど、とてもやりやすかった。ケンゴはボールを動かすのがうまく、パスセンスも素晴らしい。タニも強くて守備もいいし、前にも出てくるからいいコンビネーションを作れると思う。素晴らしいFWもたくさんいるしね」
日本の環境にすぐに慣れたことも活躍できた大きな要因だろうし、それにはやはりティンガの言葉が大きかったように思う。もちろんヴィトールも日本語を積極的に使ったり、溶け込む努力を自然としていた。また、サポーターもシーズン途中から加入するヴィトールが一日も早くチームの「一員」だと感じられるように最大限のサポートをしてくれたことをヴィトールは知っている。
「"フォルツァ ヴィトール" "ようこそヴィトール" などと横断幕を作ってくれたり、たくさん名前を呼んでくれて本当に感動しました。僕個人のこともそうだし、チームのこともどんなときでも応援している姿には本当に尊敬するし驚きました」
家族
そして、2008年8月、ヴィトールにとって「どんなときも一緒にいたい」と語る愛してやまない家族、両親と18歳と12歳の弟ふたりが来日した。ヴィトールはその数日前から、いつも以上に笑顔で楽しみにしているのが伝わってくるほどだった。
練習して、家に戻ると家族が待っているのは彼にとって何よりの悦びだろう。そして、食いしん坊のヴィトールは「世界一美味しい」と思っている母の手料理を食べることが何よりの楽しみなのである。
「僕、本当のことをいえば、お母さんが作ってくれるごはんとブラジルの豆料理さえあれば満足できるんだ。でも、お母さんは他にもミートソースのパスタや焼きバナナ、お肉料理など何でも美味しいしいろいろ作ってくれるんだ」
家族とともにリフレッシュした時間を過ごすことで、よりサッカーに集中できているとヴィトールは感じている。
8月17日、家族は初めて等々力のスタンドからヴィトールがプレーする姿を観た。
ヴィトールの父は、息子に夢を託し、間近で共に戦ってきた。そして、そういう父を息子は尊敬していた。ヴィトールが日本のピッチで活躍する姿をみて、父はどんな風に感じているだろうか。
「いま、こうしてブラジルの反対側でみなさんに優しくしてもらっている姿を目の当たりにして、感動しています。息子がこうしてプレーしているのは、自分にとっては夢のような話です。彼には、昔からこう話していました。試合によっては、うまくいくこともあるし、うまくいかないときもある。うまくいかないときこそ、気持ちを切り替えて次の試合でしっかりと頑張ることが大事。諦めない気持ちが大事なんだと彼には何度も何度も言い聞かせてきました。彼が絶対にサッカー選手の道を歩んでくれると信じていました」
母は、来日するときヴィトールの幼少時代からの写真を30枚ほど持ってきてくれた。その写真の裏には、日付やいつどこで撮影されたものか、それから大会名などが綴られていた。その写真を、ヴィトール自ら「宝物なんだ」と見せてくれたのだが、いかに愛情深く育てられてきたのか、その写真が物語っていた。
初めて等々力のスタンドから観戦したとき、母はとても感激したのだという。初めはサポーターが呼ぶ名前のコールが発音の違いから息子のそれとわからなかった。通訳から「ジュを応援する歌ですよ」と教えてもらうと、気づくとその歌は何度も歌われていた。それがとてもうれしかった。
「息子のことを温かく迎えてくれて本当に感激していますし、感謝しています。弟たちも日本で挑戦している兄の姿を見て、誇りに思っているはずだし、私自身も自慢の息子です。私たち家族は外から応援することしかできませんが、フロンターレで結果を出し、成功してくれることを祈っています。私も母ですから、ジュのことが心配ですが、ケガがないように、そして、苦労することがあっても常に仲間を信じ、相手に敬意を払い、皆さんの期待に応える結果を残せるよう祈っています。ジュには努力を惜しまないように伝えたいと思います。最後にサポーターの皆さん、ブラジルとは違うスタイルでとても素晴らしい雰囲気を作っていた皆さんの応援する姿を見て感動しました。どうかサポーターの皆さん、ヴィトール ジュニオールをよろしくお願いします」
小柄なヴィトールが献身的にピッチを駆ける姿を観ていると、なぜだか胸が突き動かされる。必死に走り、必死にボールを追う姿が健気に映るのだ。
そして、そんなヴィトールがフロンターレ初タイトルに向けたキーマンである気がしてならない。
「僕は、フロンターレを優勝させるために来ました。まだ21歳と若いけれど、これまでの経験を活かしてきっと貢献できると信じています」
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[う゛ぃとーる じゅにおーる]
小柄ながら確かな技術と抜群のスピードをいかしたプレーが魅力のMF。シーズン途中の期限付き移籍加入ながら、背番号11を背負う彼にかかる期待は非常に大きい。
1986年9月15日、ブラジル、リオグランデ・ド・スル州生まれ、167cm/63kg
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