2008/vol.06
ピックアッププレイヤー:MF4/山岸 智選手
「半端じゃなくきついトレーニングですよ。でも、あの笑顔でしょ。つい乗せられてやっちゃうんですよね」
とは、ある選手の言葉。今シーズンからチームに加入した里内フィジカルコーチは、日本代表のフィジカルコーチからなでしこリーグ2部のクラブの監督と、幅広い経歴を持った育成のスペシャリストだ。フロンターレでは主に選手個別のフィジカルコンディションの管理を担当。選手の状態を見て、ときには相当ハードなトレーニングを課すこともある。だが、それは長年の経験で培われた里内流のフィジカルコントロール術だ。選手が少しでも早く怪我から回復し、少しでも長く現役生活を続けられるための親心でもある。
里内がサッカーに触れるきっかけは、最近の若者と同じように友達の誘いという軽いものだった。だが、たまたま中学校のクラスの担任がサッカー部の監督で、教員チームの選手だったということもあり、どんどんサッカーにのめり込んでいく。高校も当時県内では有数の強豪校。毎朝5時半に起き、2時間かけて学校に通う生活を3年間続けた。国体選抜にも入り、インターハイや高校選手権にも出場。全国レベルの大会を経験したことで、さらにサッカーの魅力にとりつかれていく。大学は当時の関西4強の一角、大阪経済大学。関西学生選抜に選ばれ、韓国学生選抜との試合や東西交流戦といった大会に出場した。そんな里内に、大阪から茨城県の鹿嶋市に移転して2年目の社会人チーム、住友金属蹴球団から声がかかる。いまからちょうど30年前、1978年のことだった。
「その頃からサッカーが生活の一部でしたね。現役で約7年間プレーしました。当時はスタッフも少なく、選手兼コーチみたいな役割は当たり前だったんです。僕も年齢が上になってきて、その流れでコーチに移行していきました。もともとコーチという仕事に興味がありましたし、タイミング的にもサッカー協会の方でプロリーグ発足のための委員会ができて、日本にプロリーグが発足する機運が高まっていた時代でもありました。ただ、住友金属はJSLの2部のチーム、いまでいうJ2にいたので、まさか2部リーグのチームが入るわけないだろうとも思っていました。でも、スタジアム建設を進める自治体や、川淵さん(川淵三郎・日本サッカー協会)の存在、そしてクラブの強化策がうまく重なり、Jリーグ加盟の条件である2位以内に入ることもクリアできました。さらにジーコ招聘、住友金属から鹿島アントラーズへと移行していくわけです」
1986年のメキシコワールドカップで日本代表は、韓国に勝てば本戦に出場できるところにまでこぎつけ、1988年には日本サッカーリーグ(JSL)がサッカーのプロ化に向けた委員会を設置。国内でもサッカーが脚光を浴び始め、サッカー協会がプロ化の流れを推し進めていた時代。そんな流れのなか、クラブと自治体が手を組み、住友金属は招致委員会に手を挙げた。そして1991年、ブラジルで神様と崇められていた英雄ジーコの入団とともに、里内のサッカー人生も大きく動いていく。
「ジーコの入団、これは自分自身にとっても大きな節目ですね。ワールドカップに出場した選手が、まさか田舎町にやってくるとは。彼と一緒にできるなんて夢のような話ですよ。ワールドクラスの選手がチームに来て、会社側も環境面での整備を進め、現場も勝つことが最低条件という雰囲気になってきました。ジーコもプロチームを作るためにフロントにもアドバイスをしていたし、選手の意識的な部分もどんどん改善されていきましたね」
名称も住友金属蹴球団から「鹿島アントラーズ」へと改称し、プロクラブとして新たなスタートを切ったチームは、1992年にJリーグのプレシーズンとして開催されたJリーグヤマザキナビスコカップに出場。準決勝進出を果たす。翌年のJリーグでは1stステージを制覇。1992年に本田技研から移ってきた宮本征勝監督(故人)率いる鹿島アントラーズは、一気に表舞台へと登り詰めた。
「Jリーグがスタートする春先にイタリア遠征を行ったんですが、ジーコがいるチームならぜひ対戦したいということで、ボバンやプロシネツキといったスターがいたクロアチア代表と練習試合をやったんです。その試合は鹿島が先制したんですけど、その後、怒濤の反撃を受けて1-8で敗れたんです。その試合がターニングポイントとなって、宮本さんと一緒にジーコもプレーだけではなくチーム作りに参加して、立て直しに本気になりました。僕はフィジカル担当でしたけど、かなり厳しいトレーニングをやりましたね。そこでしっかりチームの形ができて、開幕戦は5-0で名古屋に大勝。そのまま勢いに乗り、1stステージ優勝を果たしました。アルシンドといった助っ人の存在も大きかったですけど、サッカーに集中できる環境を与えればチームは強くなるんだということを学びました」
ところで話はそれるが、フィジカルコーチといえば選手の体力面を鍛えるコーチという印象が強い。だが、選手の体だけではなく、心も鍛えていくのがフィジカルコーチの重要な役割だと里内は話す。
「当然、一番は体づくりですが、メンタルの部分のケアも大事。選手に勇気を与えることも、われわれの仕事のひとつです。自信を植えつけること。ときとして厳しいトレーニングを課しますし、オーバーワークにならないように止めるときは止める。心理的な動機づけが大切なんです。例えば、AとBという二人の選手がいるとする。とすれば当然、各選手によって負荷を変える必要がある。選手それぞれのタイプがあるわけですから、選手の見極めが大事になってきます。体格やポジションも違う。体力差もある。持久力にすぐれている選手もいれば、パワーにすぐれている選手もいる。日本人とブラジル人でもまた違う。ベースはどれも似たようなものなんですが、そこから発展応用させていくためには、選手の情報を把握してプログラムを作っていくことが大切なんです」
また、スタッフ同士の関係性が強固というのも、強いチームのひとつの条件として里内は挙げている。
「やはりスタッフワークがしっかりしているチームは強いですね。例えば、ある選手にコーチがアドバイスをしたとする。同じことを監督もメディカルスタッフもいう。これがそれぞれバラバラな意見だと、選手が戸惑ってしまうんです。また、専門がフィジカルだったとしても、テクニカルなことに対してのアドバイスもする。もちろん、最終決定は監督ですけど、意見交換ができる雰囲気は重要ですね。当然、言ったことに対してはその場限りにしないで、責任を持たなくちゃいけません。お互いがしっかりと理解して、それをトレーニング、実戦につなげていくことが大切です」
閑話休題。その後、読売クラブ(東京ヴェルディ)と日産自動車(横浜マリノス)の二強に割って入り、一時代を築いた鹿島のフィジカルコーチとして過ごした里内。しかし現状に飽き足らず、2002年、J2に降格したセレッソ大阪のフィジカルコーチを務めると、その翌シーズンには、フィリップ・トルシエの後任として日本代表監督になったジーコのもとでフィジカルコーチを務めることになる。
「セレッソの前身はヤンマーディーゼル。関西の人間にとっては、ヤンマーは三菱自動車、古河電工以上に有名だし、憧れの存在。格好良く言えば、関西の人間としてJ2に落ちたセレッソの手助けに行かなあかんと。そのかいもあって、チームは1年でJ1に復帰することができました。翌年もセレッソでやろうと思っていましたが、代表の方から要請があり、クラブと話し合いを持ちました。そこで結果的に無理を聞いてもらい、代表の方に行くことになったんです」
ジーコに鹿島での実績を認められ、日本代表のフィジカルコーチに就任した里内は、テクニカルアドバイザーのエドゥー(ジーコの実兄)、GKコーチのアントニオ・ルイス・カンタレリ、通訳の鈴木國弘とともに、コーチングスタッフを結成。仕事の場を国際舞台へと移すことで、「対世界」という新たな経験を手に入れた。
「クラブは毎日選手のコンディションを把握できますけど、代表だと呼ばれた選手が次は呼ばれなかったり、クラブの考えによってコンディションのばらつきがあるんです。そのあたりの難しさはありましたね。代表の目指すスタイルというのは、各クラブチームの指針になります。オシムならオシム、ジーコならジーコ、トルシエならトルシエの考えが、日本サッカーの在り方に反映されやすい。つまり、監督が変わってしまうと、考え方も変わってしまうんです。だから、練習方法をとやかくいうのではなく、自分なりの哲学を持たなければダメだと思います。メソッドはインターネットで調べればわかる便利な時代になりました。でも、情報過多になって悩むのではなく、自分の考え方を追求していくことが指導者として一番大切なことじゃないかなと。それはジーコもオシムも同じことを話していました」
では、里内自身の考えるサッカーに対する哲学とは、いかなるものだろうか。
「そんなたいそうなものじゃないですけど、プロである以上、コーチも選手もサッカーにすべてを捧げる姿勢が大切なんじゃないかなと。サッカー選手の寿命は野球選手よりも短い。プロサッカー選手としての寿命が10年だとすれば、その期間サッカーに集中して打ち込むことだと思います。ときには考え方が周りと違っていても、それがプロとしてどうあるべきかという自分の信念ならば、それがひとつの答えです。あとは“誠実さ”でしょうか。人を動かすには、まず自分が動かないことには何も始まらないですから」
監督は自分の色、オリジナリティーを発揮していかないことにはチームを強くできないが、フィジカルコーチは黒子だと話す。「まず、選手を奮い立たせることが重要です。例えば、怪我をしている選手は早く治すために、休みを返上してもらいます。ゲーム出ている選手は試合の翌日は休みですが、怪我をしている選手は日曜日も練習をして、それで早く治そうと。選手からしてみれば、どうして休みがないんだというかもしれません。でも、あなたの契約書には、怪我をしたまま長期間過ごすとは書いていないでしょと。できるだけ早く復帰したいなら、練習することで少しでも早く回復しようと話します。休みがなくて家族サービスができないじゃなくて、少しでも長く選手として活躍するために、早く治して1年でも長くプレーする。それが本当の家族サービスだろうと。きついかもしれないけど、先を見たらその方が選手としては幸せなんです」
里内は日本代表のフィジカルコーチを役割を終えた後、なでしこリーグ、しかも2部のジェフユナイテッド市原・千葉レディースの監督を務めている。なぜ、日本のトップの現場から、まだ発展途上の女子サッカーの現場に身を置くことにしたのだろうか。そのあたりも訪ねてみた。
「協会での仕事が終わって何チームかに声をかけてもらったんですが、ワールドカップが終わって、自分自身どうするべきか、どの道に進むべきか整理ができていなかったんです。ただ、みんなが目指している頂点で指導をさせてもらい、本当に自分はサッカーが好きなのかと自問自答したとき、技術委員として男子だけじゃなくて女子の環境も見てみたいという結論に至ったわけです。それも2部のチーム。そういう時期も自分にとって必要なことかなと」
なでしこリーグといっても、ジェフ千葉レディースの場合、選手は朝から夕方まで仕事をして、夜8時から10時まで練習を行い、終われば帰路につき、翌日朝からまた仕事という生活を送っている。しかも、選手がクラブに対して月謝を払い、運営費をまかなっている状況だ。それが女子サッカーの現状でもある。
「カルチャーショックと同時に、すごく勇気づけられましたね。こういう世界もあるんだなと。指導の仕方もまた違った難しさがありました。平等とはいかないまでも、公平に練習できる環境を与えてあげなければならない。そこまで考えなくてもいいといわれればそれまでですけど。いろいろな面で工夫しましたよ。勉強させてもらいました」
日本の頂点を極める一方で草の根活動にも加わり、日本サッカー界でさまざまな経験をしてきた里内が次に選んだのは、かつて鹿島で同じ釜の飯を食った関塚隆がチームを率いていた川崎フロンターレだった。J1に復帰後、着実に力をつけ、これから大きくなろうとしているクラブは、里内にとってどう映っているのだろうか。
「セキ(関塚)からは過去に何度か話をもらっていましたし、何かサポートできればという考えでフィジカルコーチを引き受けました。最初フロンターレの現場に来てみて感じたのは、選手が真面目、純粋ということ。こちらから投げかければ、一生懸命に取り組む。いわれたことをきちっとやる選手が多い。さまざまな面から環境を良くしていけば、強くなる可能性を秘めています。
あと、このチームは大型選手が多いじゃないですか。ジーコがワールドカップの総括として、世界はどんどん大型化していると話していました。そのなかで筋力トレーニングもやっているぞと。それに加えて、日本人の長所を生かし、アジリティーにすぐれた小さな選手も伸ばしていきましょうということになった。でも、大きい小さいは関係ありません。図抜けた存在になれればいいんです。大型選手に対する評価も行わなければ前には進めません。今回フロンターレを選ばせてもらったのは、可能性を秘めた大型選手が要所にいるのも大きかった。そういう意味で、今年菊地、横山という選手が入りました。大型選手のフィジカル面からの強化、良さを発揮させることができればと思っています。その一方で、小柄でも素晴らしいテクニックがあって、敏捷性を持った選手も多い。このチームは面白い組み合わせができる特徴的なタレントがいる印象が強いですね」
里内がフィジカルコーチに就任してからは、チーム全体はマルセロコーチ、個別のメニューに関しては里内が受け持つことになった。今シーズンからはさまざまな測定器を使い、選手個別の細かなデータを取ることも行っている。
「体力測定はしっかりやる必要があります。その選手のストロングポイント、ウィークポイントを引き出し、そこを重点的にトレーニングすることで、個人のパフォーマンス向上、怪我の予防につながりますから。マルセロがチーム全体を見て、自分が個別でスペシャルトレーニングを組みながらチーム作りをしていこうということです。それは高畠監督になっても基本的に変わりません。今年入った菊地や横山は試合数をこなしていますが、彼らは春先に来たときと体型がずいぶん変わってきました。体脂肪測定にしても、一番大切なのは除脂肪体重ですが、180センチ以上の選手なら70キログラム以上というひとつの指標に彼ら二人も近づいています。そういった体の備えはできてきているので、あとはフィジカル面を継続して高めていきならゲーム経験を重ねていくことが必要です」
また、怪我から復帰してくる選手の体調管理も里内の役割のひとつだ。練習グラウンドでは、リハビリからチームに合流する前の段階で、里内のトレーニングを受ける選手の姿を見ることができる。大きな怪我というほどではないが、選手が別メニューで里内とともに汗を流す姿もすっかり定着してきた。
「日本の場合、チームと離れて練習していると選手が負い目を感じてしまい、周りも一体どうしたんだということになりますけど、われわれからしてみれば、筋肉の疲労があるならケアするのは当然のこと。疲労をきたしているのにも関わらず、無理して一緒に練習をして負荷をかけ、後々になって大事に至らないよう管理しなければなりません。あらかじめ別メニューにすればいいだけのことです。ハードな練習をしなくたって、プールトレーニングや筋力トレーニングで十分維持することはできる。そのあたりの考え方をもう少し進歩させないとダメですね。自分の体を知っている選手は、筋肉が疲れていたら自分からやめようといってきます。これ以上やったらやばいと、あらかじめ危険を回避することができるんですね。でも、我慢してやってしまう選手も多い。やりすぎてしまうんですね。自分の体をどこまで知っているか。そういった部分をそれぞれ覚えていく必要があると思います」
フィジカルトレーニングのアプローチを語る一方で、里内は食生活の重要性も説いている。
「食事に関する意識づけですね。女子チームを見ていたときに、練習場から自宅まで2時間ぐらいかけて自宅に帰って夜食事をとり、すぐ寝なきゃいけないという状況がありました。良いトレーニングをしても30分から1時間以内にしっかり食事をとらないと、トレーニング効果は望めない。これではまずいということで、五升炊きの炊飯器を用意して、夜10時に終わったら10時半ぐらいにご飯と卵、ちょっとしたおかずを食べさせました。選手は食事を済ませてから自宅に帰って寝るだけの生活になる。十分とかいかないまでも効果的です。それを継続するだけで、体つきが全然変わりました。これは育成年代だけじゃなくて、成長した人間でも同じです。選手の寮にしても、できればグラウンドの近くにあってすぐ食事がとれる体勢がベスト。食事がおろそかになると、良いトレーニングをしても悪循環になってきます。あとは朝食ですね。コンビニのおにぎりが悪いわけじゃないですけど、クラブハウスでサンドイッチをひと切れふた切れ食べて、コーヒーを飲んで練習に出ていける環境があった方がいい。大人なんだから自己管理でいいだろうという意見もわかります。でも、プロだったらそこまでやらないと。トレーニング、栄養、睡眠は非常に大切。そういった改善策を行うか行わないかで、3ヶ月、半年、1年、3年のスパンで大きな差がつくんです。これは日本のサッカーに限らず、スポーツ界自体が変わっていかなければならないことだと感じています」
まずやれることから長期的なスパンで少しずつ変えていくことが大切。トップチームで購入してもらったいくつかの測定器も、空いているときは下の年代でも使って記録をとっていけば、後々大きな財産になると話す。トップチームのトレーニング環境と、長期的な育成コンセプト。この両輪があってこそ、日本のトップ、そしてゆくゆくは世界を目指せるようなクラブになれる。実際に世界の強豪と戦ってきた経験を持つ里内の言葉だけに、その意味は重い。
「短期的なテーマとしては当然、このチームをいずれかのタイトルを穫れるクラブにしたい。そのためにも、自分の担当であるフィジカル面で他のクラブに負けたくない。フロンターレはこれからのクラブ。良いものを吸収しながら成長していければいいと思います。選手の気質も前向きで、ブラジル人もムイント・ボン(とても良い)。将来性は高いですね。もうひとつは大きな話になりますけど、育成年代からのフィジカルに対する考え方を統一してはどうかと思います。川崎メソッドというか、フロンターレカラーのようなものを。チームの強化というのはユース年代も含まれます。17、18歳でプロの世界に出て行く選手もいるわけですから。ハード、ソフト両面からそういった環境を作り上げることが大事。そうすれば、それこそ地元出身の選手がもっと増えていくんじゃないでしょうか。そのためにもわれわれがサポートして、トップチームだけではなく育成部門とも連携しながら強いクラブを作り上げていきたいと思います」
profile
[さとうち・たけし]
鹿島アントラーズの前身・住友金属蹴球団で7年の選手生活の後、ジーコとともに鹿島の草創期をコーチとして支える。日本代表コーチ、なでしこリーグ監督を経て、2008年川崎フロンターレフィジカルコーチに就任。1957年1月11日、滋賀県守山市生まれ、169cm/70kg
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