相澤がゴールキーパーを始めたのは、高校1年のとき。高校3年の晩秋、川崎フロンターレの練習に参加するまで「プロ」を具体的に思い描いたことなどなかった。偶然の重なりによって、引き寄せられるようにキーパーへと辿り着いた相澤の軌跡とは?
新潟県有数の進学校である新潟大学教育学部附属新潟小学校に入学し、中学まで過ごした相澤。小学校時代は、サッカーより先に始めた剣道に邁進し、中学に入ってサッカー部に入り次第にサッカーというスポーツにのめりこむようになった。強豪チームとは程遠かったが、シュート力が抜群にあった相澤は2年生から中盤やフォワードとして試合に出場するようになっていた。
「朝早く学校に行って、友だちにセンタリングをあげてもらって、よくシュート練習してましたね。当時は、アルビレックス新潟の前身チームのアルビレオ新潟っていうチームが北新越リーグに出ていたんですけど、車で1時間かかる会場まで友だちと片道3時間ぐらいかけて観にいったこともあります。懐かしいなぁ」
転機となったのは、高校受験だった。県内の私立高校に進学を決めていた相澤だったが、その受験日に高熱を出し力を発揮することができず不合格となってしまう。そこで、「なんとなくピンときて」自ら選んで入った新潟江南高校が後のサッカー人生に大きく影響を与えることになる。
高校でも、やはりシュート力を買われてフォワードとしてプレーしていた相澤だったが、この年から中学時代、県内の選抜チームに選ばれていた実力ある選手が多数入ったことから、うまい選手たちに囲まれ戸惑いの日々を送っていた。ところが、ある日、その後の相澤のサッカー人生を決定づけるひとことを堀井監督から告げられる。
「お前、キーパーをやってみないか」
返事には困らなかった。
「何か自分でもよくわからないんですけど、高校入るときにキーパーグローブを自分で買っていたんですよ。いざ、入ってみたら県選抜のうまいやつがいて、やめようって思ったんですけど。だから、すんなり聞けました。ああ、そうかぁって。自分でも不思議なんですよねぇ」
高校1年の夏の出来事だった。
それからは、さらにサッカー 一色の生活になった。2年になると地域選抜にも選ばれるようにもなった。また、10日間のオランダへの遠征も経験し、3年次には高校として初のインターハイ出場も果たした。だが、相澤の心には「絶対にプロになりたい」という気持ちは、まだ沸いていなかった。
「まず、キーパーになった時点で自分がJリーグに入れるようなレベルではないと思っていたし、そこまでの自信はなかったですよね」
ところが、またも受験により相澤に転機が訪れた。
「サッカー推薦で大学に進学しようと思ったら、ここでもまさかなんですけど落ちちゃったんです。監督のつてで、フロンターレの練習に参加させてもらったのは、その3日後でした」
こうして2000年、思いがけずフロンターレの練習生として相澤のプロ生活がスタートを切った。
相澤は早くもプロ2年目となる2001年にピッチに立つチャンスを与えられた。2001年7月11日、J2第19節対大宮戦のことだった。
「すごい覚えてます。僕が緊張しないようにだと思うんですけど、当日まで正式なスタメン発表はされてなかったんですよ。でも、匠とか宏樹さんに『次、あるんじゃない?』って言われたり、前日に宿泊していたホテルでも『明日、あるかもしれないから準備しとけ』って言われていたので、薄々はわかっていました。でも、ミーティングでホワイトボードに自分の名前が書かれるのを見てやっぱり『おおっ』って思いましたね」
「無我夢中で試合中のことは、あまり覚えていない」というデビュー戦は、後半ロスタイムに向島(現・フロンターレ育成部コーチ)がFKのこぼれ球に反応し同点に追いつくが、惜しくも延長Vゴールで敗れてしまう。その後も引き分け、延長Vゴール負け、延長Vゴール負け、という試合展開が続き、やっと初勝利を手にしたのは5試合目となる横浜FC戦だった。
「とにかくうれしかったですね。プロ以来、いちばんうれしかったかもしれない。結局その年は9試合出たんですけど、2試合目からはある程度のプレーができるんじゃないかと思っていました。最後の2試合は連勝もしてすごくいい感じになった頃にケガをしてしまったんです。夏の暑い日、へとへとになって練習していたときに後ろに下がりながらフィスティングをして、変な風に着地をして右足首を捻ってしまった。2試合後が新潟戦だったんで、絶対その試合まではなんとか出たいなって思ってたんです。結果も調子もついてきてこれからってときだったんで、本当に悔しかったですね」
結局、それから相澤が再びピッチに立つのは4年後の今年まで待つことになる。毎年、シーズン前に話を聞くと「とにかく試合に出たい」と強い口調で語っていた相澤。トレーニングのなかで地道に努力を重ねて、一歩一歩成長を遂げ、成長とともに「試合に出たい」という口調も強さを増すようになっていった。改めて、この4年間は長かったと感じるだろうか?
「ああ、でも自分に自信がもてるようになったのは本当に最近なんで、あっという間でしたね。自分に自信があって出られなくて、なんで出られないんだって思っている4年間だったら、長いと感じたでしょうけどね。ただ、毎年10試合以上はベンチには入れてもらっていたし、1年1年うまくなっているのは感じていたのでもっといけるなって思っていました。そういう意味では、昨年は、出られるんじゃないかって思っていた時期もあったんですけど、なかなかキッカケもないし、もやもやしたことはありましたね。でも、今年はサテライトがあったのが大きかった。自分の力を見せられる場所があったってことが。そのなかで、けっこういいプレーができて自信になりました」
相澤がGKとして身体能力に恵まれていることは言うまでもない。高校からGKをはじめたというある意味ではマイナス要素も、いい方向に転がった。いい意味で、自分の「個性」がなかったぶん、手本となる周囲の仲間やキーパーコーチから貪欲にいろいろなことをスポンジのように吸収していけたからだ。
「あまり有名なところから来てないですし、実績もなかったですからね。それは自分自身が一番よくわかってた。高校からキーパーをはじめてまわりから遅れているいるのは明らかだったので、謙虚にできたっていうか。自分はこんなもんだって客観的にわかっていたから、ここまでやってこれたという感じですね。プロに入ってからは、ガミさん(浦上壮史)には影響を受けました。とにかく、あの人はまじめにやってましたから、同じようにやろうって思ってました。あとは、いままで教えてもらったキーパーコーチにはそれぞれ気にかけてもらっていろんなことを教えてもらいました。自分の形がなかったぶん、のびしろがあるってよく言われましたね。それは自分でもわかってました。オレはこうじゃなきゃっていう気持ちもなかったですから、自分のプレースタイルっていうのもわかんなかったんですよね」
客観的に自分が遅れをとっていることを認め、できないことをできるように練習を重ねてきた。そして、自分が身につけてきたことを試合で表現できるようになったいま、相澤は自分に対して「自信がある」と客観的に言えるだけの強さがある。
「そういう気持ちをもてるようになったことは大きいと思いますね。技術的なことでいえば、シュートをとめる力とクロスボールの処理を安定してできるようになった。あとは……、判断ですね。試合を重ねるごとに慌てず冷静に処理できるようになった」
4年ぶりに試合に出た相澤は、「思っていたよりも相手チームが恐くなかった。いい緊張感でプレーできました」と充実した表情で語った。堂々とした姿だった。そして、7月2日、対ジュビロ磐田戦で念願だったJ1リーグ初舞台も踏んだ。
「最初はスタジアムの雰囲気に緊張しましたね。でも、最初の1本目を止めて落ち着けました。DFとの連携もうまくいっているし、結果が出たことがとにかくうれしい。かなり攻められましたけど、DFもよく耐えて頑張ってくれたし、粘り強くできたと思う。最高の形で初めてのリーグ戦が勝ててよかった」と試合後に記念の一戦を振り返った。
いま、サッカー人生で一番充実しているのでは?
「そうかもしれないですね。毎年、なにかしらケガをしていましたけど、今年は一回もケガも病気もしていないですし、すごい体調もいいですね」
そう言ってから、こんな決意を語ってくれた。
「試合に出られなかった頃は、ある程度までいくと試合に出ないとこれ以上伸びようがないというか、出たらもっとよくなると思ってました。それに、チームの一員でいられることはうれしいですけど、出ないことには評価をしてもらえませんよね。試合に出られたら絶対に評価してもらえるって思ってましたし。これから先もプロで生きていくと決めた限りは、試合に出て評価をしてもらいたい。そう思っています」
まだ24歳の相澤が、これから試合で経験を積み重ねゴールの番人と言われるGKとして、どんな色の「個性」に染まっていくのだろうか。
「そういえば、今年間近ではじめて楢崎選手(名古屋グランパスGK)をみたんですけど、雰囲気で守ってるっていうか、入らなそうな雰囲気があるんですよ。すごい落ち着いてるし、存在感もあってこの人はすごいなぁって思いました。そういう存在感のあるGKになりたいですね」