2004年、フロンターレに移籍したGK 下川誠吾。
彼には忘れられない試合の記憶がある。
「ゼロ」になったことで知った危機感とサッカーをやれる喜びがそこにはあった。
「もう1回、長居でやりたいっていう気持ちがあったんですよね」
下川誠吾にとって、忘れられない試合がある。それは、2003年も終わりかけた12月27日に行われた天皇杯準決勝対鹿島アントラーズ戦のことだ。
1996年、大学3年になる春に学業と両立させる形で下川はセレッソ大阪に加入した。サッカーを始めたのは中学生からと遅かった下川だが、すぐに選抜に選ばれるなどとんとん拍子にサッカー人生が進んでいった。大学生になると、1年のときに大学選抜としてブラジル遠征に参加。2年の夏に転機が訪れる。下川の住む尼崎市内にあるセレッソの練習グラウンドで、縁あってキーパーの練習に参加させてもらうことになったのだ。当時在籍していたジルマールという手本になる存在が身近にいるなかで、キーパーコーチの指導を受け、貪欲に吸収する日々を送る。そして、半年後、在学中ながら契約を結ぶに至った。
それから8年が経ち、地元であり親しみのあるチームを、その年の天皇杯を最後に離れることが決まった。110試合連続フル出場という歴代3位となる記録をみてもわかるように、長年セレッソ大阪の守護神として君臨していた下川だったが、2003年はリーグ戦の途中から出番をなくしていた。
「リーグ戦の途中でパッと代えられて、なんでかなぁって思ってた。ポジション的に代わったら、また取り返すのは難しいしね」
そして、戦力外通告──。だが、出番を失った後も変わらずに練習を続けパフォーマンを保っていた下川に、天皇杯でセレッソの一員として出場する最後のチャンスが巡ってきた。チームは順調に勝利を重ね、ついに決勝へ。惜しくも決勝戦ではジュビロ磐田に0対1で敗れ準優勝に終わったが、そこに至る準決勝は下川にとって特別な一戦として記憶された。
「出られなかったときに、もう1回長居でやりたいっていう気持ちがあった。天皇杯からまたチャンスをもらったときに、トーナメント表をみたら準決勝が長居だったんですよね。だから、実際に勝ち進んで、やっときたなぁって感慨深かった。もう契約がないって言われてからの天皇杯だったので、最後かぁって感じでしたよね」
試合は、勢いのある両チームのぶつかりあいになった。セレッソが先制点を奪い1点リードで進むが、終了間際にオウンゴールで同点に。
「アントラーズも10冠目を獲ろうと乗っていたし、その前の試合をマリノスに4対0で勝ってた。1対1になったとき、これはちょっとまずいかなぁって正直思ったんです。そしたら延長で(大久保)嘉人が入れてくれて…。いろいろあったけど、オレはちゃんとやったかなっていう達成感がそのときはありました」
観客の大歓声もいつもと違った。長居で、鹿島相手に勝った喜びはサポーターにとっても大きかった。だが、選手たちが挨拶に行くと大歓声は静けさに変わった。
「あの静けさはなんだろう。サポーターから『最後まで、取れ! 取るぞ!!』っていう空気を感じた。普通だったら活躍した選手に名前をコールしたりしますよね。そういうのもなく、本当にシーンとした静けさでした」と下川は独特の雰囲気を振り返る。自分自身に区切りをつけることができた瞬間だった。
2004年、新たな環境で下川はチャレンジをはじめた。環境を変える難しさ、自分をわかってもらう難しさ、家族や友人たちが当たり前のように周囲にいたありがたさ。いろんなものに気づかされたという。
「もっとこう自分から裸になって自分を出せればよかったんでしょうけど、チームによって細かいやり方が違うわけですよね。その辺のやり方がわからなかった」
フロンターレという新しい居場所に慣れ、リズムをつかみはじめた夏。「そろそろいいな。さぁ、いいぞってなったときに」指を負傷し、もどかしい気持ちも味わった。
「練習できないストレスは、やっぱりありましたよね。チームに対してなにも自分が貢献できてないって」
そして2004年冬、ついに天皇杯4回戦対神戸戦でフロンターレの下川誠吾として初出場を果たす。
「思い返せばプロとしての初出場も神戸やった。セレッソで最後に長居でやるチャンスをつかんだのも準々決勝で粘った末に神戸に勝ったからやった。フロンターレでも最初に出た試合も神戸戦。なにかあるんですかね」と表情を和らげた。
戦力外通告を受けたことで知った危機感は、下川に新たなスタートを切らせた。
「ゼロになったわけですからね。それがいい意味での危機感につながって、いまの自分がいるっていうのはあります」