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ピックアッププレイヤー

 2008/vol.04

ピックアッププレイヤー:DF18/横山知伸

サッカーが好きだった。
一生懸命にサッカーをやってきた。
学生生活も終わりかけていた頃。
プロへの道が突然に開かれた。

 12008年1月──。
 横山は大歓声に包まれ、幸せをかみしめていた。新体制記者発表の席に緊張しながらも、高揚した気持ちで臨んでいた。

ああ、これがプロ選手になるということなんだ。サポーターからこんなにも温かく迎えられて、自分は幸せだなぁ。

 横山は、自分がプロ選手としてサポーターに支えてもらっていることをきちんと理解している選手だ。ナビスコカップ予選、柏レイソルに敗れた後、横山の表情は暗く沈んでいた。失点に絡んでしまったことを深く悔やんでいた。後日、そのときのことを振り返ったとき、こう話したのが印象的だった。

「千葉まで遠いのに、しかも土曜日なのにお金を使ってきてくれる。そうやってチームを支えてくれているし、結局、選手の給料だってそういうところから出ているわけですよね。だから、申し訳なくて…。試合に勝ったら、サポーターやクラブがみんな一緒に喜べる。それが、自分にとって最高にうれしいことなんですよね」

 大手証券会社の内定から一転、プロサッカー選手へ──。その経歴に注目が集まった横山知伸だが、これまでどのような人生を歩んできたのだろうか。

 東京に生まれ育った横山がクラブに属してきちんとサッカーを始めたのは小学校2年のときだった。小学校のサッカー少年団ではなく、いくつかの学校の生徒たちが集まったクラブだったため、学校の垣根を越えて友達がたくさんできたことが思い出だ。中学時代は、また別の地元のクラブに入った。だが、練習は週に3回程度。サッカーもやるし、学校での生活も楽しみ、放課後には塾にも行く。サッカーだけに没頭するような日々ではなかったという。

 そんな横山が、東京都のサッカー名門、帝京高校に入ってしまうのだから不思議である。中学3年のある日、横山は帝京高校対石神井高校の試合を西が丘で観戦した。小学生の頃から、帝京高校の試合はテレビにかじりついて観ていた。「ここでサッカーをやりたい」という気持ちが沸々とわきあがってきた。横山は帝京高校を受験し、合格。晴れて、帝京サッカー部の一員になった。

 帝京高校サッカー部に入ると、当然のごとく周囲はうまい選手ばかりだった。横山は、現実を知ることになる。
「最初は本当にびっくりしました。足は速いし、体は強いし、足下のプレーはうまいし。こういうやつらが将来はプロになるんだろうなぁって思っていました」
 県の代表クラスやユース代表、トレセンなどあらゆる選抜歴をもった選手がたくさんいるなかで、一般入試でごく普通の流れでサッカー部の門を叩く横山のような選手は、圧倒的に少なかった。地道に練習にとりくみ、必死についていく日々が始まった。それでも、帝京サッカー部は下のチームでもきちんと試合を組んでもらえたことが救いだった。そして、厳しい走り込みや練習をしながらも、サッカーを楽しむことは忘れなかった。

 高校3年、横山に転機が訪れた。途中出場した試合で、いきなりの2得点3アシスト。しかも、ディフェンスやボランチといった普段から慣れていたポジションではなく、突然に言われたフォワードでだった。これが監督の目にとまり、チャンスを掴むことになる。その年のインターハイで、帝京高校サッカー部は国見高校を2対1で破って優勝する。ピッチには、横山も立っていた。準決勝で国見と清水商業の対戦を偶然にみた帝京サッカー部員は、国見のあまりの強さに自信をなくしていた。だが、苦しい練習が強い精神力を作ってくれたのだろう。決勝の日に経験できた喜びは、高校時代の一番の思い出だと横山は懐かしそうに振り返った。

「フィジカルの面でも自分は劣っていたと思います。でも、メンタルの重要性を高校時代は学べた。チームメイトがみんな頑張るやつばかりで負けず嫌いだったから、そういう周囲の環境に自分もつられて頑張れたんだと思います」


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 大学でもサッカーを続けようと考えた横山は、自己推薦で1校のみ受験するが、不合格になってしまう。浪人生活が始まった。サッカーのことは頭から離れ、勉強に打ち込んだ1年間だった。ここでも負けず嫌いが顔を出し、ライバルと競い合い、塾の自習室にどちらが最後まで居残るか、そんな些細なことにまでこだわった。得意だった英語以外は、4月の模試では惨憺たる結果だったが、夏が過ぎる頃にはぐんと成績があがっていった。そして、晴れて早稲田大学に合格した。

 いざ、早稲田に合格すると、忘れていたサッカーへの気持ちが蘇ってきた。高校時代のサッカー部の同期で早稲田に進学した友人も「来たら、すぐに出られると思うよ」と言う。当時の早稲田大学は過渡期にきていた。東京都リーグに低迷していたこともあり、友人の助言を横山は素直に受け取った。ところが、いざ入部してみると、高校時代に選手権で優勝を経験している兵藤慎剛や鈴木修人らも名を連ねていた。先輩には徳永悠平(現FC東京)や矢島卓郎(現清水エスパルス)らも在籍している。横山の目論見は外れ、入部を許可してもらうためのセレクションが始まった。浪人時代10kg増えた体重で、横山は必死に走り込んだ。大榎監督から入部OKが出たのは、1ヵ月後のことだった。

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 横山は高校時代同様に、下のカテゴリーからのスタートだった。でも、どんな場合でも、がむしゃらな姿勢と「負けたくない」というプライドは失わなかった。1年の夏にはAチームに声がかかり、秋には左サイドバックとして試合に出場するチャンスももらうことができた。その後もボランチ、センターバックとして徐々に試合に出るようになり、横山と歩を揃えるかのように早稲田もまた一歩ずつカテゴリーをあげていった。関東2部リーグから1部リーグへ、そして、優勝が狙えるところまでチームは強くなっていった。

 大榎監督は、常日頃から「サッカー以外のこともきちんとやるように」と指導していたこともあり、サッカー部員のほとんどが4年になると就職活動をした。大学時代、サッカー部の練習や授業以外の自由に使える時間を横山はアルバイトに費やした。居酒屋やカラオケボックス、飲食店などアルバイト先では、社会人と接する貴重な経験ができた。横山が、アルバイトで感じたことは「世の中の事を知っているおとなはカッコイイ」ということだった。証券会社を就職先に選んだのは、世の中の状況に応じて刻一刻と流れが変わり、その情報を集め分析していくことに興味をもったからだ。営業職に就いたら厳しい分、頑張ったら報酬という形で結果も得られる。帝京高校での走りのつらさを思い出せば、社会に出てからの厳しさも乗り越えられるのではないかと思った。
「厳しいところで頑張ったから自分は成長できた。厳しいほうが自分にとってはいい環境だと思っていました」

photo 4月に早々と内定をもらった横山は、教育実習で抜けた以外は、早稲田大学最後の年をサッカーに集中できた。この年、横山たち4年生は並々ならぬ思いでタイトル獲得に賭けていた。2年時には、リーグ戦で2部に在籍しながらも、総理大臣杯で準優勝。3年のインカレでは、決勝で駒沢大学に1対6で大敗しタイトルを逃した。4年のリーグ戦では最後まで優勝をあきらめなかったが、結局2位に終わった。そして、学生時代最後の大会となるインカレが始まった。この年が早稲田の監督最後の年だった大榎も「最後だから絶対に勝とう。俺は絶対に優勝したいんだ」とストレートに言葉をぶつけて何度も選手たちに渇を入れた。チームにも異変が起きていた。それまでの試合では、勝っても派手に喜ぶことはないし、ゴールが決まってもさらりと受け流すようなところが早稲田にはあった。ところが、インカレが始まると、1点のゴールにみんなが駆け寄ってくる。チームはひとつになっていた。そして、駒沢大学を準決勝で下した早稲田は、悲願のタイトルを手にした。横山の目に涙はなかった。思う存分、はしゃいで喜びを表現した。

 フロンターレからの話が舞い込んだのはリーグ戦も終盤に近づいた11月の終わりだった。試合が終わった後、監督からこう聞かれた。

「おまえ、サッカーやる気あるか?」
 横山は、即答した。
「もちろんです」

 サッカー選手になることが自分の最大の目標であり、子どものころからの夢だった。やるからには自分が歩んできた道をプロの世界で形に残したかった。いつものように東伏見から自転車をこいで20分後、自宅につく頃には、就職かプロか、どちらを選ぶべきか心は決まっていた。

 母には、このときまで就職の内定のことはあえて言ってなかった。それはどこかで、横山がプロへの道を捨ててなかったからだろう。一方の母は、自宅に送られてきていた内定通知書を見て、息子が就職を決めていることは知っていた。だが、あえてそれを口にはしなかった。

photo 横山は、小学校6年のとき、父親を癌で亡くしている。母は女手ひとつで2歳年上の姉と横山を育ててくれた。帝京高校、大学浪人、早稲田大学入学と常に横山の選択肢を家族は黙って応援してくれた。横山はサッカー選手としてエリートコースを歩んできたわけではない。常にギリギリのところから踏ん張って努力で何かを掴んできた。その結果が、プロ選手になるという夢を最後の最後で掴ませたのだろう。

「私立の高校に行って、浪人もさせてもらって大学も好きなところに行かせてもらった。母はずっと働いて学校に行かせてくれたので、直接『ありがとう』とは照れくさくて言えないけれど、感謝の気持ちはもちろんあります。そういう姿をみてきたからこそ、帝京に入ったときあまりにもレベルが高くてサッカーをやめたいなぁと思ったこともあったけど、せっかく入れてもらった母親にサッカーをやめるなんて言えなかった。いつか、喜ばせてあげたいなぁという気持ちはずっとありました。将来のことを考えたときにも、親がサッカーをやってほしいんだろうという気持ちは伝わってきていました。だから、どういう選択をしたら周りの人が喜んでくれるのかなぁというのは考えましたね。それこそ家族や近所の人が、自分がサッカー選手としてプロになったらすごく喜んでくれるんだろうなぁって」

 プロとしての道が切り開かれ、インカレで欲しかった優勝を手にいれた。すっきりとした気持ちで横山は大学生活を終えた。

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 試合出場の機会は早いタイミングで訪れた。4月12日、J1リーグ第6節大分戦がデビュー戦となった。フロンターレは試合内容で上回りながらもゴールが遠く、スコアレスドローに終わった試合だった。

「勝ち試合だったのに引き分けに終わってしまった。プロの現実を知って、これがサッカーでメシを食うことなんだって実感しました。それを体で感じることができました」

1 代表選手が抜けたこともあり、横山は試合出場のチャンスを掴んだ。と、同時に苦い経験も味わった。失点シーンに絡んだときは、試合後、記者から声をかけられると、「もっと追いこんで練習することが必要だと思います」とがっくりと肩を落とした。だが、横山には、ポジティブな面がある。受験で落ちたときも反省しきったら、すぐ次の目標に向かった。理想や夢を描くことで、それに近づこうと前を向くことができる。

「こういう自分になりたい、とか、これができたらカッコイイなって思うことで、自分の中からモチベーションをあげられるんです。そういう性格なんですよ」と笑顔をみせた。とはいえ、もちろん課題とも向き合っている。「挙げればきりがないんですけど」と言ってポイントを次々とあげた。

「リズムが悪いときに、シンプルにボールをまわすこと。つなごうとする意識が強すぎて選択肢の幅が狭くなっていたのを修正すること。もっと人に強く、ヘディングでは絶対に負けない。体の使い方をもっと工夫してスライディングで抜かれない。走力をカバーするためにも、ポジショニングを常に気をつける」

 最後に挙げたのは「コーチングをすること」だった。
 ある試合で、横山はジュニーニョに厳しく言われた。
「なんで後ろから声を出さない」
 味方がパスを受けようとしているとき、背後から相手選手が近づいているのが見えているのに、なぜ教えてやらない、ということだった。
「それでチームのミスが一個なくなる。僕のポジションはGKの次に全体が見渡せるわけだから、それを活かしたい。俺、声だしていきます」

 いま、横山にとって、日々が勉強でもある。
 ひとつひとつのプレーを噛みしめながら。
 大切に、大切に。
 努力と夢が自分をここまで育ててきたことを知っているから──。

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[よこやま・とものぶ]

空中戦での競り合い、粘り強いマーキングが特徴の大型DF。高校3年生まではFWとしてプレーしており、守備の選手ながら足元の技術にも定評がある。 1985年3月18日、東京都練馬区生まれ、184cm/75kg >詳細プロフィール

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