2008/vol.02
Jクラブ8チームが競合した末に、川崎フロンターレに今季加入した菊地光将。滞空時間が長いヘディングは見る者もプレーする者も圧倒するだけの力がある。
フロンターレを選んだ理由も、ヘディングが強くなりえた理由も、一体彼がどんな人生を歩んできたのかも知りたいと思った。
川崎に、菊地光将が誕生するまでの物語とは──。
生い立ち
菊地は、ほとんどすべてのプロサッカー選手がそうだったであろう、いわゆる“サッカー小僧”では、ない。また、迫力ある風貌から一見すると「恐そう」というイメージをもたれがちだが、優しい声でゆっくりと話す極めて穏やかな青年だ。ピッチでの狼のような“オーラ”が、一瞬にして和らぐ感じだ。「イメージと違った」とほとんどのチームメイトが口にするほど、意外なギャップが魅力でもある。そしてなにより、J8クラブが競合したという定評通りに、非凡な能力をもつ選手だ。
一体、菊地光将は、どんなサッカー人生を送ってきたのだろうか。それが知りたいと思った。
はじまりは、楽しい思い出ではなかったという──。
菊地光将が、サッカーを始めたのは幼稚園のときだった。言い出したのは自分からだったが、サッカーが好きな父親から強く勧められたことがきっかけだった。それから越谷FCジュニア、越谷FCJr.ユースと地元のサッカークラブでサッカーを続けてきた。
幼稚園のときは、「サッカーをやりなさい」という父親の存在が恐かった。小学校のクラブでは、わいわいと遊ぶような練習メニューの日は楽しかったが、試合で厳しいコーチの指導日になると一転、行きたくないなぁと感じることが多かったという。
こんなこともあった。中学のとき、埼玉県の公式戦で浦和レッズジュニアユースと対戦する機会があったのだが、トップチームを連想させるユニホームをみただけで圧倒されてしまった。結果は1対4で完敗。試合後、チームメイトたちとこう話した。
「こういうやつらがプロに行くんだろうなぁ」
無意識のうちに菊地のなかに「プロ」と自分との隔たりを感じ取り、夢を描くことさえなかった。
「本当になんとなくサッカーをしていた感じでしたね。あの頃は、サッカーしていてどうなるのかぁと思っていました」
それでも、クラブの友人たち7〜8人とともにサッカーが盛んな浦和東高校に進学。どうにか、サッカーと菊地の線はつながることになった。
トップ、サテライト、ユースと3軍制になっているサッカー部で、同期のGK鈴木智幸(現東京ヴェルディ)と長身ディフェンダー以外は、全員ユースからのスタートだった。菊地は1年の夏にはトップに昇格。ボランチやセンターバックとして3年生が引退した後の新人戦から試合に出るようになった。
ところが、高校時代もサッカー漬けの思い出は作れなかった。2年生の冬、韓国ソウル市との親善試合でケガを負ったのだ。
「シュートブロックにいこうとしてボールの前に足を出したら、向こうは俺の足が見えなかったみたいで、思い切り蹴られてしまいました。その後もできると思って入ったら、左足に体重をかけた瞬間に、『バリバリバリ』って音がして、あっ、やっちゃったって」
左足腓骨の複雑骨折だった。やっと復帰できたとき、季節は巡ってすでに高校3年の秋になっていた。そのため、J下部組織とも対戦の機会があるプリンスリーグやインターハイなど楽しみにしていた試合にほとんど出ることはできなかった。
「自分たちの代のときに、あんまり試合に出られなかったことは辛かったですね」
実は、高校を最後に菊地はサッカーから離れようとしていた。三者面談で先生と親には「沖縄の大学に行きたい」と告げ、その方向で進路は固まっていた。でも、引き留めた人物がいた。それが、サッカー部の監督・野崎正治だった。野崎は、菊地の能力の高さを見抜いていた。だからこそ、サッカーにのめり込まない一面がある菊地に対して、歯がゆさを感じることもあったのではないだろうか。「もったいない、サッカーを続けろ」と野崎は菊地を諭し、大学サッカーの強豪チームである駒澤大学への進学を薦めた。菊地の才能が、サッカーと引き離されることがなくよかった、と心から思う。
駒澤大学で、菊地は変わった。変わらざるを得なかったと言ってもいいかもしれない。秋田監督を中心としたチームワーク、厳しい練習、菊地が1年時から続いたインカレ3連覇など菊地の礎となるものを築いたのが大学時代のハードワークだった。プロ入りする選手が多かったことも刺激になった。
秋田監督は、高校時代までの菊地には芽生えたことのない気持ちを植えつけた。
「監督は、厳しかったけど、普段から選手ひとりひとりに声をかけてくれたり冗談を言ったりして、みんなから慕われていました。技術の上手い下手ではなく気持ちをすごく言ってましたね。仲間のために体を張るとか、試合に出ていない人たちのためにも頑張れとか、一生懸命やるとか、学生らしくひたむきに、とかそういうことをいつも言われていました」
思い出は、たくさんある。うれしかったことよりも迷惑をかけたことのほうが思い出深いと菊地は微笑んだ。
そのプレースタイルから退場も多かった。2年のインカレ決勝戦では、前半40分にイエロー2枚目で退場。泣きじゃくる菊地はハーフタイムに1学年上の巻(現名古屋)から、「頑張るから試合観てろよ」と声をかけられた。菊地は試合終了までロッカールームで泣き通しで試合を観ることはできなかった。10人で掴んでくれたインカレ優勝は苦い勝利の味だった。
フロンターレのスカウティング担当の向島建は、菊地を観るため駒澤大学の試合会場や練習に足を運ぶようになっていた。そこには、驚いたことにフロンターレのユニホームに身を包んだ菊地がいたという。その理由は、実に菊地らしいのだが後で明かすとしよう。しばらく足を運んだ後、大学3年のインカレ予選の後、向島は初めて菊地に挨拶をした。
「ヘディングの強さは頭抜けていましたね。4年でボランチだったのでそのイメージが強いですが、3年のときにはセンターバックもやっていました。うちの将来を考えたときにも絶対に欲しい選手でした。ただ、競合することはわかっていました。先日、U-23代表候補合宿にも呼ばれていましたが、実はすでに大学時代から五輪関係者がよく菊地を観にきていましたからね。そういう試合に限って退場してしまうなんていうこともありましたけど、だから僕は選出されたことに驚きを感じませんでした。むしろ、やっと呼ばれたのか、と。うちの方針としては、奇抜なことはせずにしっかりとフロンターレのよさを伝えていこうと思っていました。練習に参加してもらったり、チームの雰囲気を感じてもらって、最後は本人が来たいと思うことが大事ですから。でも、いまだから言えるのですが、僕はなんとなく菊地はうちに決めるんじゃないかという予感が少なからずありました」(向島)
向島はスカウティングの段階で、菊地とフロンターレの意外な共通点がわかってきた。福家強化本部長が埼玉県出身で、浦和東の野崎監督とは母校である浦和南の後輩にあたること。川島永嗣が浦和東出身で菊地の先輩に当たること。そして、菊地が身につけていたフロンターレのユニホームである。それが直接プラスに働いたかはわからないが、向島はそうした「縁」も大事にした。
実は、菊地が仲良くしていた駒沢大学のひとつ後輩の安藤がフロンターレU-18出身で、菊地は彼からフロンターレのユニホームなどを譲り受けていたのだ。ところが、当の菊地は無頓着で、とくに着ていたことに意味はなかったという。最初は、菊地の選択肢のなかにフロンターレの名前はなかったのだ。
それでも菊地が秋田監督と相談し、何チームかに絞ったなかにフロンターレの名前は残っていた。ACL決勝トーナメント前に練習に参加した菊地は、セパハン戦に向けて一丸となって練習しているチームに共感を覚えた。またある日、菊地は向島に「川島永嗣さんと話がしたい」と申し出た。
「永嗣さんは、浦和東の『伝説』ですからね。話を聞いてみたかったんです。最後は自分が一番行きたいところに決めたほうがいいって言ってくれました」(菊地)
いろいろな人に相談を重ねがらも、菊地はまだ迷っていた。
そして、2007年11月11日──。運命の日がやってきた。この日、暇をもてあましていた菊地は安藤とフロンターレの試合を観にいこうということになった。向島に連絡をとって等々力のスタンドでレッズ戦を観た菊地は、いたく感動し「ここでサッカーをやりたい」と気持ちが固まった。その後、秋田監督から向島に「菊地をよろしくお願いします」と電話があった。
11月24日、菊地の加入決定の知らせが等々力競技場で発表された。これまでもフロンターレは確かな目で選手を選び、そして選手たちはその期待に努力して応えフロンターレで実力を開花させてきた。だが、菊地の場合は最初からJ8クラブが競合したことからも明らかなように「誰もが欲しい」と思わせるスカウティングにとっては王道をいく選手だった。獲得に至った理由は様々な要素がある。もちろんスカウト陣の情熱と真摯な態度もそうだろう。一丸となって勝利をめざすチームの雰囲気やレッズ戦での純粋な「感動」も菊地の心を大きく動かしただろう。なにより感慨深いのは、8チームが動いた選手を真正面から獲りにいき、獲得できるチーム力をフロンターレがつけたということだ。
ヘディングという武器
駒澤大学の「蹴って前線へ」というカウンターサッカーで、菊地はDFラインの前の中盤の底に入り、きたボールすべてをヘディングで跳ね返していた。大学時代に何度も対戦した横山知将は、振り返る。
「駒沢で一番要注意なのがキクだった。あいつを外して攻めよう、というのが共通認識でした。とにかく、ヘディングが強い。本当に強いですよね。ロングボールはすべてキクが跳ね返すという感じでしたよ」(横山)
ヘディングの強さの秘密は、どこにあるのだろうか。
今季、フロンターレの現場スタッフに加わった里内猛フィジカルコーチは、選手個人の体型や筋量、持久性やパワーなどを数値化してコンディション調整を行っている。もしかしたら、その秘密は“身体能力”にあるのかもしれないと思い里内コーチを尋ねると意外な答えが返ってきた。
「菊地は、データ上は、ずば抜けた身体能力ではないんですよ。トータルでみるとごくごく平均です。ただし、走り込んでのジャンプ能力は高いものをもってます。ヘディングって、ただ高く跳べばいいわけじゃないですから。菊地の場合、高くあがったボールに対してどのタイミングで跳べば一番打点が高くなるかという空間認知能力が優れていると思います。よっぽど練習したんじゃないですかね」(里内)
さらに、里内フィジコによると菊地のバランスのよさは、対人プレーの際に相手の勢いをとめようとぐっと踏み込んで重心が下がるとき、股関節の動きが柔らかく減速する動きが速いのだという。だから、倒れることが少ないのだろう。
その話を向島にしたところ、「それはもう、駒沢時代の練習でしょう」と即答された。大学時代、相手よりも先にジャンプし、滞空時間を長くとってヘディングで競るという練習をよくしていたのだそうだ。そうした練習の賜でもあるのだろう。
だからといって、菊地の武器が大学時代に誕生したわけではない。キッカケは高校時代の、あるミスから生まれていた。
話は、高校2年に遡る。試合中、相手チームのカウンターから「ヘディング、OK!」と声を出した菊地の頭上をフワリとボールが飛び越え、そのままゴールに結びついてしまったことがあった。試合後、野崎監督にこっぴどく絞られた菊地は、その日からヘディングの練習量を増やした。それがキッカケとなり、高校時代にすでに「ヘディングは負ける気がしない」というぐらいに自信をもっていたのだ。
無限の可能性
プロ入りした菊地は、ヘディングについての自信が揺らぐことはなかったが、最初はサッカーの違いについていくために、戸惑いも大きかったという。いままでは前を見ていればよかった。でも、後ろからきたボールをもらい、前に展開するという「視野の広さ」も極端なことを言えば、180度から360度に変えていく意識をもつ必要があった。
「最初は、後ろからのボールのもらい方すらわかりませんでした。タイミングがわからないし、受け方もわからない。ベンチから試合を観ていたときは、タニやケンゴさんをよくみていました」(菊地)
高畠監督は、中盤の底に菊地を配置しているが、菊地の能力や期待することについて次のように話してくれた。
「球際が強く、もちろんヘディングに強い。DFのワイパー役のようなイメージが菊地にはある。これからビルドアップやボールポゼッションやパスプレーがもっとできるようになれば、もっとよくなるはず。DFラインからいかにボールをひきだして前につなげるか。前を向いたときの展開力はもっているので、もっとゲームの流れが読めるようになれば慣れていくと思う」(高畠)
ナビスコカップ予選2試合目となる札幌戦で初出場をしたのは3月23日。「緊張して、すごいドキドキだった」というその日から、まだ2ヶ月しか経過していないが、すでに菊地がプロのスピードに慣れ判断がよくなってきたことがわかる。プレーの質が変化していたからだ。
向島は、こう語る。
「サッカーがまったく変わって、菊地自身の役割も変わったから最初は苦労していました。でも、観てる限り落ち着いてきたし、それに意外と菊地は適応能力が高いんですよね」
大学時代、警告累積で試合に出られない菊地がBチームのCF役としてプレーしているのを向島は観たことがあった。
「足下でしっかり受けてキープしていた。監督が『CFとして育ててればよかったな』って冗談を言っていたぐらいけっこうやれてましたね」
J1第12節、5月10日対浦和戦。試合は浦和の巧みな試合運びにアンラッキーも重なり敗れてしまった。だが、浦和選手相手に菊地が空中戦を制している姿は彼の非凡さを十分にみせてくれた。高く、強く、そして倒れなかった。
これから試合を重ねていくにつれ、菊地はさらにスピードをあげて選手として能力をいかんなく発揮していくだろう。そう遠くない未来に、フロンターレを担うとともに日本を代表する選手としてピッチに立っているのではないか。浦和戦での菊地の頼もしいプレーをみながら、そんなことを考えていた。
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[きくち・こうすけ]
大学トップクラスの実績を誇る大型ボランチが、Jリーグ8クラブとの競合の末、川崎に加入。ユニバーシアード日本選抜メンバーにも選ばれており、能力の高さに疑いの余地はない。 1985年12月16日生まれ、埼玉県越谷市出身。182cm、72kg >詳細プロフィール