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 2007/vol.20

中村憲剛がよく口にする言葉がある。「自分だけの力ではここまで来れなかった」。
J2時代のフロンターレに入団し、日本代表の中心選手へと駈け上がった
激動のサッカー人生を送っている27歳。謙虚でひたむきなゆえに成長を続けられる憲剛の胸には、
学生時代から喜怒哀楽をともにしてきた加奈子夫人にかけられた言葉が刻まれている──。

1  日本サッカー界の目先は2010年に向けられている。12月21日。南アフリカワールドカップ(W杯)のアジア予選が始まる来年に向けて、32人の代表メンバーが発表された。憲剛も名前を連ねたがもう驚く者はいないだろう。

 昨年は代表戦13試合すべてに出場した。学生時代は全国レベルの実績を残せず、いわば「無名」の選手が2003年にJ2だったフロンターレに入団。ところが今は日本代表の中心選手の1人になった。でも憲剛は変わらない。監督の指示を100%遂行すべく、考えながら動くプレースタイル。「サッカーがうまくなりたい」という気持ち一心で練習に打ち込み、目の前の試合だけに集中する。先は見ない。有名選手になっても学生時代と変わらないからこそ、プレーの質は上がっていく。

 ある日、加奈子夫人に言われた言葉がある。「いつも謙虚でいよう。代表に入ったからなんで偉いのか。1人のサッカー選手であることに変わりはない。絶対勘違いしてはダメ」。その言葉を素直に受け止めている。サッカーもまたメンタル面が大きくプレーを左右するスポーツ。ピッチで見せるパフォーマンスからもメディアに対する発言からも、めまぐるしい周囲の変化に流されない憲剛がいることは明確だ。

 加奈子さんとの出会いは憲剛のサッカー人生にとって大きなプラスだった。「マイナスなことは言わない。いつも前向きな話をする。それに救われたところはある。(代表選手でも)何でもない時の俺を知っているから、曲がらずにこれたと思う」。今でも「友達」のような関係が憲剛の精神面を支えてきた。嬉しい事も、悔しい思い出も、苦しい出来事も共感してきたからこそ自然体でいられるのだ。

 これもフロンターレと憲剛をつなぐ不思議な縁なのかもしれない。中央大学4年の時。サッカー部史上、初めて募集したマネージャーとなった同級生、加奈子さんとの交際がスタートしたのが2002年6月。フロンターレとの”出会い“もその時だった。プロサッカー選手になれるかどうかの可能性を模索していたが、自らの売り込みで練習参加が決まったのがほかでもないフロンターレだった。3か月後に”合格“をくれたこのチームだけが自分の可能性を信じてくれたのだ。


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 本当にプロで通用するのか。加奈子さんがふっと不安になった事があった。同年の11月。加奈子さんがテレビで目にしたのは、Jリーグのチームから戦力外通告を受ける選手の動向を特集する番組だった。「毎年戦力外になる選手の平均年齢が25歳くらいだと聞いてちょっとせつなくなりました」と振り返る。憲剛が決めたプロへの挑戦という事の大きさを初めて認識した瞬間だったという。もちろん夢をふくらませる男にその気持ちを伝えることは無かったが…。

 そんな心配をよそに憲剛は入団から突っ走った。「最初の目標は開幕戦のメンバー入ることだったけど実際メンバーに入った時は本当に驚いた」。1年目から34試合4得点と上々のスタート。その一方で勝ち点1差でJ1昇格を逃すという悔しさも味わった。そして2年目の2004年は「プロ人生の転機」の年になった。

 2年目を「勝負の年」と決めた憲剛。大卒ゆえに、ここでレギュラーを取って結果を残さなければならないという思いがあった。一方同年、加奈子さんは学生時代からの目標だった語学留学のためオーストラリアへと旅立った。日本を発つ前に2人は1年後の帰国後に結婚することを約束した。両方が頑張る決意を胸に秘めて離ればなれになった。

 だがオーストラリアへ憲剛が届けた電子メールは加奈子さんを驚かせることになった。そこには「守備的ポジション」という言葉が記されていたのだ。中大時代から、加奈子さんが知る憲剛は「前で、前で。得点に絡む選手」だった。「守備をできると思っていませんでした」と笑ったが、確かにプロ入り後の03年も石崎監督の下、途中出場が多かったもののポジションはトップ下やFWだった。しかし04年に就任した関塚監督に始動後のキャンプで要求されたポジションは「ボランチ」だった。

 最初は困惑した気持ちをつづったメールをオーストラリアへ届けた。しかし腹に決めた「勝負の年」。憲剛は徐々に切り替えていった。それがメールの内容にも表れていたという。「ステップアップのチャンスだから。攻撃に専念したい気持ちもあるけど、今はそれを封印して新しいポジションで勉強にもなるし、頑張りたい」。「今日は紅白戦の1本目のメンバーに入れた。それでうまくいった気がする。楽しくなってきた」。

 約8000キロ離れた地にいる加奈子さんへのメールは加奈子さん自身を励ました。語学習得のためのチャレンジ。新しい”冒険“をしている憲剛と同じ心境になれたからだ。「(留学して)単位が取れなかったら1年が無駄になる。俺も日本で頑張るから」と伝えた憲剛。「自分でそう言っている分、責任も感じていた」と語った。

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ORIHICA 憲剛の2004年は実った。9月11日。勝てばJ1昇格が決まる第33節の大宮アルディージャ戦。2万人で埋まった等々力競技場に遠路はるばる駆けつけた加奈子さんの姿があった。しかし結果は敗北。36節の水戸戦で昇格を決めるまで“足踏み”し、遠距離を何度も往復させたがJ1昇格の瞬間を見届けてもらった。そして帰国直後の2004年12月。2人は約束通り籍を入れた。

 結婚後も憲剛のJ1でのサッカー人生はめまぐるしく動いていた。特に2006年は大きな転機だった。日本代表の監督にオシム監督が就任した。フロンターレからまず我那覇が招集された。「門戸が広がった感じがした。最初ガナが入った時にフロンターレの選手も見られているんだ、と思った」。ジーコジャパン時代の05年に箕輪が一度招集されたが、ジーコ監督はメンバーを固定しがちだった。

 しかしオシム監督にも憲剛は呼ばれなかった。同監督が代表監督に就任して3度、メンバーを発表する機会があったが名前は無かった。周囲は騒いだ。明らかにJリーグトップレベルにあるプレーヤーになっていたからだ。「代表は?」「アピールできましたか?」「オシムが見に来ましたが?」頻繁に報道陣から質問攻めにあっていた。
 常に同じ答えを返した。「チームで頑張るだけ」「代表に入っていないので何も言えない」と。サッカー選手なら誰もが代表に入りたい。いや、それを到達点に置いてプレーする選手もいる。もちろん悪いことではないが憲剛は違った。本当に代表への執着心は無かった。

 憲剛と加奈子夫人はこう語っている。

 憲剛「2人で代表が目標という話はしたことがない。実際”別もの“だと思っていたし、毎日毎日をフロンターレで頑張ろうとしか考えていなかった。急に来た『別世界』みたいな感じだったかな」
 加奈子夫人「代表に入る前から代表に執着しすぎると目標を見失うから、それは良くないよね、という話をしていました。サッカーはチームプレーですから自分ばかりが目立とうとすると、チームがぎくしゃくすると思ったんです。淡々と頑張っていれば機会は来るかもしれないし、それでも来ないかもしれないし」

5 06年10月4日。日産スタジアムでのガーナ戦で後半30分から憲剛は日本代表にユニホームを着てピッチに立った。スタンドには家族も友人も招待した。小学生でサッカーを始めてから全国大会に出たこともなかった。中大時代も4年の時は主将として2部から1部に上げることだけに力を注いでいた。その憲剛が胸に日の丸をつけていた。こつこつと努力をしてきた姿を知る加奈子さんも、代表デビューを見届け「感動しました。なんかぐっときました」と語った。

 それでも憲剛は舞い上がることはなかった。「フロンターレありき。チームで頑張らないとダメ」。日本代表の憲剛ではなく、フロンターレの憲剛であるという考えはファンに伝わり、自らの活躍につながった。2006年、10得点を取り初のJリーグのベストイレブンにも選ばれた。もちろん代表にも入り続けオシムサッカーの中心になっていった。

 2007年はこれまで経験しなかった様々な経験をする年になった。23日の愛媛戦で今年の試合数は57試合となった。リーグ戦、ナビスコ杯、ACL、天皇杯、そして代表。9月までほとんど2〜3日おきに試合をこなしていた。移動をしながらだ。特に9月の代表の欧州遠征とACLは、体にこたえた。気温10度を切るオーストリアから30度ある日本に戻り、すぐ大分戦を戦って、ACLセパハン戦のため湿度20%以下のイラン・イスファハンへ乗り込んだ。

 「あのときは気が張っていたからそういうことは考えなかったけど、今思えばあの時が一番きつかったと思う。とにかくその中でマッサージとか酸素(高圧酸素カプセル)とか、やれることはやっていた」。

 家でも「疲れた」とは口にしなかった。「いや疲れたとは、思わないようにしてた。意図的に。一度そう思ったら落ちて行っちゃうと思ったから」。だが加奈子夫人はさすがに感じ取っていた。「寝ても覚めてもサッカーでしたから。予定に追われているという感じでした。一時期はちょっと疲れちゃっているなと感じました。見ていて分かりました。入団して初めてですね。でもつらいながらに、サッカーを楽しんでくれればいいなと思っていました」

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 憲剛に「疲れた?」とは聞かなかった。学生時代、海外へ旅行へ行くことも多かった加奈子さんに比べて憲剛はそういう経験はゼロに等しかった。それが今年はインドネシア、韓国、ベトナム、オーストリア、イランという地に遠征に出た。食事はどうか。体調は大丈夫か。もちろん加奈子さんにとっては心配だったし疲れているのは分かっていたが、普段と変わらない生活作りを心がけた。憲剛は時に一人で試合のDVDを見たり、ゲームをしたり。時に2人でたわいもない会話で盛り上がったり。変わらない日常が「ストレスがたまらないような生活」(憲剛)を作り上げた。

 「今年は良く食べてよく寝て。痛いところがあったらすぐ言うということを決めていた。月の半分家にいないときもあって。『よくサッカーやっているな!』と思っていた。いい試合もあれば悪い試合もあったけど、タイトなスケジュールの中、1年間大きなけがをせずやれたというのは良かった。充実していたと思う」。巧いサッカー選手は「タフさ」も身につけようとしている。

 そしてこう続けた。「それはスタッフのおかげでもあるし奥さんのおかげでもある。家に帰れば食事の心配はしなくて良かったし安らげる雰囲気だった。ハードな日程になってよりありがたさを感じた」。

 2008年1月15日。チームより先に日本代表は鹿児島で始動する。憲剛の初のW杯に向けた戦いが始まることになる。アジアでの厳しい環境、タイトな日程。そしてW杯へのプレッシャー。J1タイトルを狙うフロンターレでの戦いとともにより激動の1年になるだろう。だが中村家では目標は立てない。立てたことはない。ひたむきにこつこつと目の前のものだけをこなす。
 加奈子さんは言う。「ひとつのことをやり続けるのは大変だしすごいと思います。うらやましいという思いもあります。(中大で)マネージャーをやっていてすごく良かったのは自分にサッカーはできないですけど、一員として選手と同じ気持ちになれること。選手と気持ちを共有できること。それは今も同じなんです」。来年はもっと大きな喜びがある。それを共有するために憲剛は走り続ける。

 [なかむら・けんご]
独特なリズムを持ち、素早い判断力、広い視野から繰り出されるパスに注目。
攻守両面の核となる川崎のファンタジスタ。1980年10月31日、
東京都小平市生まれ。身長175cm、体重66kg
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オリヒカ担当者から

中村選手には過去いろいろ着ていただきましたが、年内最後のピックアッププレイヤーということと、最後の締めくくりの意味で、オリヒカの一番人気アイテムでコーディネイトさせてもらいました。コートは英国テイストの千鳥格子柄カシミア混ウールコートです。バックベルト等ディテールも多彩でビジネスからカジュアルまで着用できます。来年は頂点を目指してがんばってください。ORIHICAも応援しています。

 

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