2007/vol.17
小学5年生で川崎フロンターレのスクールに加入。
プロ入り2年目ながら、川崎サッカー歴は10年目を迎える鈴木達矢。
川崎に生まれ、川崎フロンターレとともに歩んできた“生え抜き”選手だ。
1998年──。
川崎フロンターレは発足2年目を迎え、JFLでJリーグ昇格をめざして戦っていた。川崎フロンターレのスクールに通う小学5年生、鈴木達矢の姿も等々力のスタンドにあった。少年の目は、リベロのポジションに入っていたブラジル人選手に釘付けになった。
「ペッサリ、ヘディングが強くて好きでした。近くで観ると大きいし、『強えぇ!』って思ってました」
試合後は、フロンターレの選手たちにサインをたくさんもらった。自分が所属するスクールのトップチーム、という意識はさほどなく、プロ選手たちの試合が間近で観れ、「すごいなぁ」という純粋なワクワク感が達矢の心を占めていた。まだ、このときは自分が同じピッチに立つことになるとは、想像もしていなかった。
1988年2月29日、4年に一度の閏年となるその日に鈴木達矢は生まれた。川崎市幸区に住んでいた鈴木家は、祖母、父母とともに一番下の達矢を含めた3兄弟の6人家族だった。男ばかり3人兄弟の鈴木家の一日は、ケンカで幕を開けた。
「些細なことで毎日ケンカですよ。『飲み物とれよ』『自分でとれ』とかそんな感じで。2個上のにいちゃんとは年も近かったから、しょっちゅうケンカでした。それを一番上のにいちゃんが優しくとめてくれてましたね」
夏休みには、父親が企画して八ヶ岳に行ったり、キャンプに出かけたりとアウトドアを満喫していた鈴木兄弟。サッカーは、長兄が「やりたい」と言い出したことをキッカケに、兄弟3人で始めることになった。当時の達矢は、まだ園児だったため、兄たちとは違う幼稚園のサッカークラブに入った。
川崎市立下平間小学校に入学すると、すぐに兄たちと同じ「リバーFC」に入部。練習は週に1回だったが、1年生の達矢は6年生の長兄が友だちと授業が始まる前の朝7時30分から練習するため、「僕も入れて」と混ぜてもらっていた。
すでに小学生の頃から、現在の達矢を想像させるエピソードがある。2年生のときにビデオ撮影された映像が残っているのだが、いわゆる“団子サッカー”がそこには展開されていた。ボールにほとんど全員が集まって塊となって両ゴール間を移動していくなか、達矢はその輪からポツンと離れてポジションをとっていた。こぼれ球を狙っていたのである。
「団子のなかにいたんじゃ、蹴られるし痛いじゃないですか。俺は、こぼれたところをばーんと蹴ってました。そういう子がわずかだけど何人かいたんですよ。面倒くさいだけなのか、計算していたのか…」
もちろん、達矢は後者だった。
小学5年生になった達矢は、選考会を経て市の選抜メンバーにも選ばれるようになっていた。その頃、フロンターレのスクールの募集を見つけてきた友だちに誘われて、みんなで応募しようということになった。これが、達矢とフロンターレの出会いだった。週に1回金曜日に、友だちとバスに乗って下野毛グラウンドに通う日々が始まった。
「楽しかったですよ、フロンターレのスクールは。市の選抜には入っていたけど、その頃の俺は運動神経も普通だったし、太ってたんですよね。それでも長距離なんかは学年で一番速かったから『動けるデブ』って言われてたけど。市の選抜に行けば、うまい子はいっぱいいたし、監督もこわかったので、選抜に行くよりもフロンターレのほうが楽しかった。遊びみたいなんだけど、ミニゲームもしっかり真剣にやって、お互いにびびることなく遠慮なくやれたし。だから、すげぇ楽しかった」
現在U-14監督を務める大場健史コーチは、小学生時代から鈴木達矢を知っている。大場は、当時の印象をよく覚えているという。
「達矢は、きかんぼうでしたね(笑)。動きも敏捷性があって、身体能力も高かったですよ。とにかく負けず嫌いだったから、ゲームで負けていると必死になって削りに入るぐらいでしたね。そういう闘争心を見ていて、こいつはもしかしたら…っていう予感はありましたよ」
大場が言うように、達矢はとにかく“負けず嫌い”だった。小さい頃から兄たちには負けたくなかったし、幼稚園のときは友だちと積み木をどちらが高く積み上げられるかを遊びで競争して、自分の負けを認めると相手の積み木を、ぐしゃっと倒してしまったこともあった。
〜1999年、フロンターレJ2優勝&J1昇格。
鈴木達矢フロンターレスペシャルクラス(小6)
6年になりフロンターレのスペシャルクラスに進級し、週に2回通うことになった。この頃、選抜では右サイドハーフ、リバーFCではフォワードをやっていたが、フロンターレではリベロのポジションについた。そして、すでにこの頃から「ボールを奪うこと」の楽しさに達矢は魅せられていった。
「いろんなポジションをやったけど、ディフェンスは楽しかった。ここにくるなって思ったとおりになったり、来そうだなってところに寄っていってボールが取れたりすると面白かった。リバーではフォワードをやっていたけど、あんまり足は速くなかったし、レベルが高くなるほどディフェンスやるほうが楽しかったですね」
〜2000年、フロンターレJ1最下位&J2降格。
鈴木達矢フロンターレJrユース昇格(中1)
2000年4月、川崎市立塚越中学校に入学。同時に達矢は、川崎フロンターレジュニアユースの一員になった。どうしても入りたかった、というわけではなかった。リバーFCの友だちが進む中学の部活とどちらにするか悩んで、それでも両親や友だちに「フロンターレのほうがいいんじゃない?」と言われて、あっさりと「そうか」と決断した。
当時のジュニアユースは、達矢の代が20人以上と初の大所帯で、2年3年は合わせて20人程度だった。そのため、技術的にも優っていた達矢は1年の途中から2、3年生に混ざって合宿や練習に参加していた。
最初の転機は、この頃訪れた。中学1年のナイキカップに向けた練習試合でのこと。試合前のスタメン発表で、リベロのポジションに自分の名前が呼ばれなかった。「あれ? 出られないのかな」と思っていたところ、川口コーチから「ボランチ、達矢」と告げられた。それ以来、達矢はボランチでプレーすることになったのだ。
「最初は動き方も全然わからなかったです。周りも見えないし、ボールを取ることはできてもそこから先ができない。後で川口コーチに聞いたら、サイドバックをやらせるかボランチをやらせるかで迷っていたそうです。でも、ボランチでよかった」
翌年のナイキカップも達矢にとっては自分を成長させる出来事にぶつかった。早生まれだった達矢は、1学年下がメインとなるこの年も参加ができたのだ。その頃の達矢は、自分のプレーの調子が悪いと自分自身にイライラして、それを周囲にもはっきりとわかるよう態度を表に出してしまっていた。そんな自分に気づいて、サッカーノートに書き綴った。
「きょうは、イライラしてしまった」
その返事に、曺 貴裁コーチからこう書かれていた。
「お前がみんなを引っ張っていく立場なんだから、お前がそんなんじゃチームがバラバラになるだろう。しっかりしろ」
中学時代の1学年の違いは、サッカーのレベルも先輩に対する畏怖の念も大きなものだ。達矢ら先輩たちに物怖じしていた後輩たちも、達矢の「気づき事件」以降、おどおどすることはなくなった。
「俺は、自分が3年生に対してもがんがんやっていくタイプだったから、なんでがつがつ来ないんだろうと思ってました。でも、曺コーチにアドバイスしてもらってからは後輩もどんどんくるようになったしコミュニケーションもとれるようになってチームがよくなっていった。結局、自分を変えるしかないってことに気づいたんです」
〜2002年、フロンターレJ2 4位。鈴木達矢、フロンターレU-15(中3)
達矢たちが中3になったこの年、フロンターレジュニアユースは夏のクラブユース選手権で初の全国大会出場を決めた。練習試合では、のびのびとやれる分、レイソルやマリノスと対戦しても負ける気がしないほどに成長していた彼らだったが、初めての全国の舞台は予選リーグ全敗というほろ苦い結果だった。
「経験がなかったから、大きい舞台に立って自分たちの力を出せなかったんです。俺たち練習試合では強いのに、なんで大会になると弱いんだろうってみんなで話しました。懐かしいですね」
〜2003年、フロンターレJ2 3位。
鈴木達矢、ユース昇格(高1)
毎年、高校選手権決勝を欠かさず観ていた達矢は、その舞台に立ちたいという憧れもあり、面談で「高校に進学したい」と伝えた。だが、「フロンターレでやったらどうだ」とコーチに言われ、ここでもあっさりと「はい」と返事していた。
この年、達矢は先輩ふたりと初めてフロンターレトップチームの練習に参加した。ストレッチのとき、当然先輩ふたりは二人組みになる。ひとりでどうしようかと思っていた達矢を手招いたのは、アウグストだった。
「アウグストに足をもってもらって、そのままひっくり返されたりしてましたよ(笑)。その当時、3年生の先輩たちが全国大会を控えてて、根性みせようって1年は坊主になることになったのに、次の日行ってみたら本当に根性出してたのは、俺だけ。ちょうどその頃練習に参加してたんで、突っ込まれましたよね」
高校2年になると達矢は、U-16日本代表にも選ばれ海外遠征にも参加するまでに実力を伸ばしていた。海外の高いレベルでプレーしたことで、自分も周囲もプレーの変化を感じ取っていた。海外遠征から帰ってきて何気なくプレーしていても先輩から「お前、うまくなったなぁ」などと声をかけられるようになった。とくにフランス代表の攻守の切り替えの早いサッカーを目の当たりにして、影響を受けたことが大きかった。大場コーチは振り返る。
「ナショナルトレセンにも参加してましたし、海外での大会の後で攻守に渡っていい仕事をしてくれたと布監督からも聞きました。経験を積んでいきましたよね」
2005年秋、フロンターレが5年ぶりのJ1リーグで奮闘を続ける頃、鈴木達矢のフロンターレトップチーム昇格が決まった。実は、順調にきていた高2の冬に疲労骨折が見つかり数ヵ月戦列を離れていたこともあり、本人はダメなら大学進学も考えていたという。それだけに決まったときはホッと胸をなでおろした。
2006年、鈴木達矢のプロ生活はスタートを切った。11歳の達矢少年がスクールの門を叩いてから9年が経過していた。
鈴木達矢の特徴は、なんといってもボール奪取能力にある。小さい頃から攻撃よりもボールを取ることに喜びを感じていただけあって、その局面において発揮される集中力と嗅覚は飛びぬけたものがある。
「達矢の特徴は、やはりボールを奪うところですよね。どのチームにも欠かせない働きバチのような存在です。ハングリーさも凄くて、ファーストディフェンダーとして1回プレスに行くだけじゃなく、2回、3回とかけ続けるのはすごいと思います。達矢の調子がいいとチームに流れが生まれるし、逆にあいつの調子が悪いとチームの調子もダウンしてしまうところもありました。ユースチームの心臓だったんですよね」(大場コーチ)
サテライトの監督を務める高畠コーチにも達矢のプレースタイルについて聞いてみると、端的な答えが返ってきた。
「達矢は中盤でのボール奪取能力ナンバーワンですね」
でも、と高畠コーチは言葉をつないだ。
「課題は、取った後のボールをどうするか。ビルドアップにどれだけ参加できるか。人への強さ、ボール奪取能力は体が小さいけれどピカイチなので、あとは、インターセプト後にどう前につなぐか。お願いします、とパスを預けるのではなくて、自分でもラストパスのひとつ前となるようにイメージして出せるかですね」
大場コーチも、達矢にこうエールを送っていた。
「関さんのもとで、ボランチだけじゃなくディフェンスも経験して、達矢にとって本当にプラスになっていると思います。彼には特徴があり、できることは明確です。あとは、ビルドアップのイメージをもってやること。壁にぶつかったとしてもあきらめないで乗り越えてほしいですね」
ボランチとしてどう生きるべきか──。
自分が得意な部分を生かし、課題を克服する日々が続く達矢にとって幸運なのは、自分を磨いてくれるチームメイトの存在があることだ。
高校時代、オリンピック代表で活躍するFC東京・今野泰幸のプレーを観て達矢は憧れた。でも、プロに入ってから目標になったのはチームメイトの鬼木達だった。
「プロになってわかったのは、今野選手はタニくん(谷口選手)タイプだってこと。俺は体も小さいしパワーもない。それからはオニさんが目標になりました。オニさんのことは、小学生のときから観てましたからね。鹿島からフロンターレに来てうまいなぁと思ったし、小さいのにすごいなぁって」
2006年夏、函館キャンプでのこと。達矢は目標にしていた鬼木から言われた言葉を今でも大切にしている。実は、プロ入りした直後の達矢は「やっていける」という手応えを掴んでいたという。でも、その自信はすぐに消え、得意の守備面ではいける自信があったものの、判断や技術はまだまだ足りないと痛感していた。
「オニさんに言われたんです。『お前、最初はやれると思ってただろう。でも、焦るなよ。基本は、しっかりやれ。後で絶対に後悔するから。俺がそうだったから』って。オニさんは、サッカー面も人生の先輩としても、こういう人になりたいって思わせてくれる先輩でした」
2006年末、その鬼木達が引退を決意することになる。リーグ最終戦でベンチメンバーに入った達矢は前泊するホテルに滞在していた。そこへ、その朝引退を決意したばかりの鬼木が現れ、達矢の肩をぽんと叩いた。
「俺、引退することに決めたから」
突然のことに呆然としてしまい、先輩に返す言葉がなかった。試合後に行われたセレモニーでは、隣に並んだ背番号24(当時)の黒津がびっくりするほど人目を憚らず号泣する達矢の姿があった。
「もうちょっと一緒にプレーしてほしかったです」
2007年──。
達矢は、サテライトリーグではボランチ、ストッパー、サイドバックなど幅広くプレーし、さらにはACLにも出場するなど少しずつ経験を積んでいる。うれしいこともあった。サテライトリーグアウェイの草津戦の後、河村に声を掛けられたことだ。
「カワムさんは、ここで取られたら危ないなっていう危機察知能力がすごく高い選手なんです。そのカワムさんに、『お前、きょう効いてたよ。助かった』って言われて、すっごくうれしかった」
ボールを奪うことに関しては、嗅覚で動けるまでに高いレベルにある。だが、課題のビルドアップとなると、まだやるべきことは残されている。パスを出しては「いまのでよかったですか? もっと強いほうがいいですか?」と受け手に確認をし、ひとつひとつのプレーの正解を見つけているところだ。
「ケンゴさんにもよく話を聞くんですけど、言われてます。『お前はディフェンスはいいんだから、後は攻撃面の判断をよくすればいけるよ』って。それは、自分でもわかっています。最初のころは、全然ダメでボールをもらいたくなかったときもありました。ディフェンスになるとガツガツやってたんですけどね。最近は前も見られるようになってきたし、判断も少しずつよくなってはきていると思います。でも、自分のなかではトップで試合を組み立てるレベルじゃないと思ってます。そこは、練習するしかないですよね。自分の出したパスのイメージどおりに相手が動かなければ、どこが悪かったのか、どうするべきだったのかを考えていくしかないと思っています」
達矢は、チームに貢献できる選手になりたい、と言う。
「ここで点を取ってほしいというのもあるけど、ここでボールを奪ってほしいというところで奪いたい。ここで流れを切れば、ここでボールを取れば自分たちのリズムになるっていう流れを読める選手になりたいですね」
川崎市のサッカー少年たちや、スクールや下部組織の後輩たちのために頑張ろう、という気持ちはありますか?
最後の質問を、そう達矢にぶつけた。答えは意外なものだった。
「以前はそう思ってましたけど、いまはそういう風に考えていません。プロになった最初のころは、応援してくれる人たちのために頑張ろうと思ってたけど、それ以前にまずは自分自身が頑張らなければ始まらない。自分のために頑張って結果を出して試合に出られるようになってはじめて、みんなへの恩返しができると思っています」
結果を出してはじめて、「恩返し」や「みんなのために」という言葉が言えると達矢は考えている。でも、本人の思うところとは別に、達矢の存在は、すでに下部組織の後輩たちのモチベーションとなり、目標として根付いているのだ。大場コーチの言葉を最後に伝えたい。
「達矢が出たACLの試合は、選手みんな観ていました。すごく応援していたし、ああいう選手になりたいってみんな言ってるし、目標ですよね。達矢がフロンターレスクールからトップチームまで上がった選手だということをみんな知ってますから。だから、彼らのためにも頑張ってレギュラーを掴み取ってほしいですね」(大場)
ボール奪取能力に優れるボランチで、スクール生の星となるべく、
2年目の今季は大きな飛躍を期待したい。
1988年2月29日生まれ、神奈川県川崎市出身。170cm、63kg。
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