Season 2003はじまりは“26”
中央大学からやってきたルーキーがつけた背番号は26。
翌年から14番を背負っているため、結果的に26番をつけた唯一のシーズンとなった。
新体制発表会見は、現在のような音楽とコラボレーションする大々的な場ではなく、公民館の会議室で実施。本人曰く「こういう記者会見の場が初めてで緊張しかなかった。この時は何を話したかも覚えていない(苦笑)」とのこと。なおジュニーニョとアウグストは来日しておらず、新加入選手である山根巌、石塚啓次の3人が出席した。
J2開幕戦となったビッグアーチ(当時)のサンフレッチェ広島戦からベンチ入り。後半43分、スローインを投げ入れる形でピッチに入るという、ややレアな形でJリーグデビューを飾った。
トップ下のポジションで存在感を示す中で、強烈な印象を残したのが、6月28日のサガン鳥栖戦だ。最終ライン裏のスペースに走り込んだ今野章にスルーパスでのアシストを記録。さらに41分、アウグストからのクロスを中村がジャンピングボレーで一閃。ドライブ回転がかかったシュートがゴールに突き刺さるスーパーゴールだった。当時流行していたダンディ坂野の「ゲッツ」のゴールパフォーマンスを披露している。
石崎信弘監督からの評価も高く、新人の中村は全試合メンバー入りを果たすなどフル稼働。いつも全力でアップをしていたので、練習着がこすれる音から「シャカシャカくん」というアダ名で先輩たちから呼ばれていた。
チームは最終節までJ1昇格争いを演じたが、勝点1差に泣き、最終的には昇格を逃す結果で幕を閉じた。チームの目標を達成できなかった悔しさもありつつ、プロ1年目の充実感もあるルーキーイヤーとなった。
出場記録・主な成績/
受賞歴(Jリーグ他)
出場/得点 | ||
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J2リーグ | カップ | 天皇杯 |
34/4 | ─/─ | 3/2 |
主な成績/受賞歴(Jリーグ他) | |
---|---|
チーム | 個人 |
2003 J2リーグ 5位 | ─ |
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Season 2004ボランチへの転向
石崎体制が終了し、鹿島アントラーズでコーチを務めていた関塚隆が監督に就任。
そのシーズン前の宮崎キャンプで指揮官から「ボランチをやってみないか?」とポジション転向を打診されている。トップ下でプロの水に慣れ始めていた分、戸惑いの気持ちが大きかったという。しかし後ろの位置にいるボランチをやることで視野が広がり、ボールに触りながら周囲を生かすプレーも徐々に習得。ここからゲームメーカーとしての才能が一気に開花していく。
自慢のスルーパスにも磨きをかけ、ジュニーニョとのホットラインを確立。そのきっかけとなったのが京都サンガ戦で出した強引な縦パスだ。「エイッと入れたんです。するとジュニーニョは、そのパスをピタリと止めて、クルッと反転して、あっさりとゴールを決めてしまった。あれは衝撃でした。この試合から迷いなく縦パスをチャレンジするようになりました」と当時のことを述べている。わかっていても止められない二人のコンビネーションは、その後、数年に渡って相手クラブに脅威を与え続ける武器となった。
前半戦から快進撃を続けたチームは首位を独走。早々にJ1昇格を決定させると、残り7試合を残してJ2優勝を決めた。J2リーグ戦最多となる勝点105、総得点104を記録。「あのときのチームは負ける気がしなかった」と本人が語っていたことがあるが、記憶にも記録にも残る圧巻のJ1昇格劇だった。
出場記録・主な成績/
受賞歴(Jリーグ他)
出場/得点 | ||
---|---|---|
J2リーグ | カップ | 天皇杯 |
41/5 | ─/─ | 3/0 |
主な成績/受賞歴(Jリーグ他) | |
---|---|
チーム | 個人 |
2004 J2リーグ 優勝 | ─ |
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Season 2005J1の洗礼と適応
2000年以来となる5年ぶりのJ1だが、中村にとっては初の舞台。チームはJ2を制覇した前年度の主力を中心に、スタイルも継続して臨んだ。その開幕戦、中村自身は試合前夜に発熱して欠場。その後も腰痛などもあり、J1初出場を果たしたのは4月3日のガンバ大阪戦となる。そして、その試合で中盤で対峙した日本代表・遠藤保仁のプレーに衝撃を受けている。
「何をやっても、あの人の掌で転がされている感覚があった。試合全体を仕切っているし、流れを見てボールをキープして落ち着かせたり、要所や嫌なところにもいつもいる。この人は本物だな思った」
こうして、J1の舞台で日本を代表する選手たちに刺激を受けながら、中村も著しく成長。J1初ゴールは8月24日の横浜FM戦で、マルクスのシュートをGK目前で触ってコースを変えて決めた形だった。
夏場以降はチームもJ1の基準に適応。16得点を挙げたチーム得点王であるジュニーニョを生かす堅守速攻スタイルで勝ち星を重ね始めると、終盤にはリーグ6連勝を記録した。リーグ戦の最終順位は8位。当時のJ1昇格組といえば、残留争いに巻き込まれるのが当然だっただけに、ひと桁順位で終えたことは、大健闘と評価しても良かった。
出場記録・主な成績/
受賞歴(Jリーグ他)
出場/得点 | ||
---|---|---|
J1リーグ | カップ | 天皇杯 |
29/2 | 6/2 | 3/1 |
主な成績/受賞歴(Jリーグ他) | |
---|---|
チーム | 個人 |
2005 J1リーグ 8位 | ─ |
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Season 2006J1での躍進と代表デビュー
J1復帰2年目は、シーズン序盤からチームの攻撃力が爆発。開幕戦で6-0と圧勝すると続く第2節も7-2で大勝。開幕2試合で13得点というJリーグ新記録を打ち立てて、最高のスタートを切っている。中村はジュニーニョや我那覇和樹らのストライカー陣を躍動させるとともに、ボランチの相棒を務めていた谷口博之の急成長も促している。神出鬼没な飛び出しでゴールを挙げる谷口とともに、中村自身も得点を量産。結局、ボランチ2人がふた桁得点を記録するという偉業を成し遂げている。リーグ最多得点記録となる84得点を達成した年で、「攻撃的なフロンターレ」の看板を掲げる契機にもなった。
そしてドイツW杯終了後に日本代表監督に就任したイビチャ・オシムによって、ついに中村は日本代表に初招集。10月4日に日産スタジアムで行われたガーナ戦に途中交代で代表デビューを飾ると、その一週間後のインド戦では初スタメンで強烈なミドルシュートで代表初ゴールを記録した。「思い描いていた通りのシュートだった」と中村。年代別から一度も日の丸のユニフォームに袖を通したことのない自身にとって、生涯忘れられない瞬間となっている。
チームはリーグ戦2位と大躍進。前年の天皇杯で優勝した浦和がこの年にリーグ優勝したため、翌年のAFCチャンピオンズリーグ出場権を獲得するなど、強豪クラブへの仲間入りを果たすシーズンともなった。
出場記録・主な成績/
受賞歴(Jリーグ他)
出場/得点 | ||
---|---|---|
J1リーグ | カップ | 天皇杯 |
34/10 | 10/3 | 2/1 |
主な成績/受賞歴(Jリーグ他) | |
---|---|
チーム | 個人 |
2006 J1リーグ 2位 | Jリーグ ベストイレブン選出(クラブ史上初) 優秀選手賞 日本代表初選出 |
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Season 2007ACLへ初参戦 オシムジャパンの常連組に
国内3タイトルだけではなく、クラブとして初めて挑戦するACLに向けて、積極的な補強を敢行。日本代表でも中村と苦楽をともすることになるGK川島永嗣が加わったのもこの年だ。
中村はオシムジャパンの常連組として定着しながら、チームでも絶対的な存在として君臨。初挑戦になったACL初戦となったアレマ・マラン戦では、黒津勝の落としたボールを右足で流し込み、自らダメ押しゴールを記録。クラブ初となる国際試合を自らのゴールで花を添えて、勝利で飾った。
チームは浦和のホーム不敗記録を25試合で止めるなど強さを見せるが、移動による過密日程の影響もあり、夏場から徐々にその勢いに陰りが見え始める。リーグ戦で苦戦を強いられ、ACL準々決勝ではセパハンにPK戦の末に敗退し、ACL制覇の夢が潰えた。
J1復帰後、初めてタイトルに王手をかけたのが、ナビスコカップ(現在のルヴァンカップ)決勝。クラブは「国立をフロンターレブルーに!」との願いから知人を観戦に誘う「水色バイバイン作戦」を発令。多くのサポーターが駆けつけた光景に、「スタンドがびっしりの観衆で埋まっていて、うちのサポーターってこんなにいたんだ!って驚いた」と中村は振り返っている。自身、初めてのファイナルだったが、ガンバ大阪に0-1で惜敗。準優勝の悔しさを噛み締めている。
なおこの年の11月、オシム監督は緊急入院し、日本代表監督の座を退いている。中村にとって多大な影響を受けた指導者だっただけに、そのショックもあまりに大きかった。
出場記録・主な成績/
受賞歴(Jリーグ他)
出場/得点 | |||
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J1リーグ | カップ | 天皇杯 | ACL |
30/4 | 3/0 | 4/0 | 7/3 |
主な成績/受賞歴(Jリーグ他) | |
---|---|
チーム | 個人 |
2007 J1リーグ 5位 カップ戦 準優勝 | Jリーグ ベストイレブン選出 優秀選手賞 |
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Season 2008長男誕生、2度目の準優勝
優勝候補の一角として名前を挙げられる強豪クラブとなった。ただ序盤に関塚監督が体調不良によりドクターストップとなり、高畠勉コーチが指揮を執る波乱のシーズンとなっている。
この年は、本人が「特別なゴール」と称する得点がある。それは9月27日に旧国立競技場での柏レイソル戦で決めたフリーキックだ。息子・龍剛くんが生まれた二日後の試合であり、「ボールを置いた瞬間に入ると思った」と本人が振り返った会心のゴール。長男誕生後初の試合を、ゆりかごパフォーマンスでチームメートとともに祝福した。
前半戦こそ苦戦が続いたが、7月にヴィトール ジュニオール、8月にレナチーニョを獲得し、ジュニーニョや鄭大世とともに自慢の攻撃陣が爆発。その手綱を握っていたのが中村で、個性豊かなアタッカー陣を巧みにコントロールし続けた。チームは夏場以降は尻上がりに順位を上げていき、優勝争いを演じながらシーズン終盤へ。
優勝の可能性を残した最終節・東京ヴェルディ戦では、アディショナルタイムに中村が豪快なミドルシュートを決めて2-0で勝利。しかし吉報は届かず。シーズン序盤に指揮官交代という事態に見舞われながらも優勝争いを演じたが、またも2位で涙を飲んだ。なお日本代表として活躍しながらも、リーグ全34試合出場を記録している。
出場記録・主な成績/
受賞歴(Jリーグ他)
出場/得点 | ||
---|---|---|
J1リーグ | カップ | 天皇杯 |
34/4 | 1/0 | 1/0 |
主な成績/受賞歴(Jリーグ他) | |
---|---|
チーム | 個人 |
2008 J1リーグ 2位 | Jリーグ ベストイレブン選出 優秀選手賞 |
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Season 2009関塚体制終了。「一番苦しかったシーズン」
関塚体制の集大成となったこの年は、国内3冠のみならず、ACLを含めた前人未到の4冠制覇も視野に入れてシーズンを折り返している。中村はクラブのみならず、日本代表でも中盤の一角を担い、南アフリカW杯本大会出場切符獲得にも貢献。出場を決めた6月のアジア最終予選ウズベキスタン代表戦では、岡崎慎司の決勝ゴールをお膳立てした。GKに弾かれたボールを泥臭くヘディングで押し込んだ形だったが、そこに絶妙な浮き球のパスを出したのは中村である。ただ岡崎が一発で決めなかったことで自身にアシストがつかなかったことを中村はよく苦笑いで話している。
過密日程の中でもチームも夏場まで順調だったが、9月末から徐々に暗雲が立ち込める。ACLを準々決勝で敗退すると、11月のナビスコカップ決勝(現・ルヴァンカップ決勝)では川崎有利の声が大きい中で、FC東京に0-2で完敗。またも準優勝に泣くと、リーグ戦では残り2節で鹿島アントラーズに首位を奪われ、そのまま逃げ切られる形で優勝を逃した。天皇杯も準々決勝で敗退となり無冠で終了。中村自身は過密日程の中で高いパフォーマンスを見せるも、チームは悲願に届かなかった。
なお現役引退を発表した後、キャリアの中で最も苦しかった時期として中村自身があげたシーズンが、この2009年でもある。
「一番苦しかったのは2009年。4つタイトルが取れそうで一個も取れなくて、精神的にしんどかった。これだけやっても届かないのかと。届きそうで届かなかった1年だったという思いが強いです」
このシーズン限りで関塚監督は辞任。タイトルを取るために足りないものを、それぞれが考えさせられる一年となったとも言える。
出場記録・主な成績/
受賞歴(Jリーグ他)
出場/得点 | |||
---|---|---|---|
J1リーグ | カップ | 天皇杯 | ACL |
32/4 | 3/0 | 1/0 | 9/3 |
主な成績/受賞歴(Jリーグ他) | |
---|---|
チーム | 個人 |
2009 J1リーグ 2位 ヤマザキナビスコカップ 準優勝 | Jリーグ ベストイレブン選出 優秀選手賞 |
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Season 2010南アフリカW杯で日本代表としてプレー。海外移籍への葛藤
南アフリカW杯が開催された年である。
関塚体制の後を継いだのは、08年にも途中から指揮をとったヘッドコーチの高畠勉監督。その公式戦初戦となった2月のACLの城南一和戦の前半、中村憲剛は相手選手との激突で負傷してしまう。診断は下顎骨骨折(かがくこつこっせつ)。これまでのサッカー人生で大きな怪我を負ったことのない中村にとっては、初の長期離脱だった。そんな中村へのエールとして、試合前のサポーターが「14」のユニフォームを掲出し、チームメートたちが「14」のユニフォームを着て入場する光景もあった。
そして目の前の課題であるリハビリメニューに取り組むことに全力を注ぎ、予定よりも早く復帰。W杯本大会の日本代表メンバーにも、稲本潤一、川島永嗣とともに見事選出。決勝トーナメント1回戦のパラグアイ代表戦に出場し、W杯の舞台にも立っている。
中村自身は、その後のザッケローニ体制になっても継続的に日本代表に呼ばれていたため、この年も過密日程となった。途中交代で10分ほど出場したグアテマラ代表戦の翌日に、ナビスコカップ準々決勝・鹿島アントラーズ戦2ndレグに途中出場するという、プロ人生で初めての中0日の超強行日程も経験。この鹿島戦では得点も記録し、劇的な逆転勝利の立役者となっている。「二日連続は、これまでではじめての経験。だから今日はコンディションうんぬんではなく、気力だけでした」とは試合後の言葉である。
W杯後、川島と鄭大世が欧州へ移籍した影響もあり、チームは優勝争いは演じられず、リーグ戦は5位。高畠監督は1年で退任となった。中村自身も、W杯直後、そしてシーズン後に海外移籍に悩む時期を過ごした1年でもあった。
出場記録・主な成績/
受賞歴(Jリーグ他)
出場/得点 | |||
---|---|---|---|
J1リーグ | カップ | 天皇杯 | ACL |
27/4 | 3/1 | 1/0 | 3/0 |
主な成績/受賞歴(Jリーグ他) | |
---|---|
チーム | 個人 |
2010 J1リーグ 5位 | Jリーグ ベストイレブン選出 優秀選手賞 |
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Season 2011東日本大震災の発生でサッカー界にも激震。恩人ジュニーニョとの別れ
クラブOBである相馬直樹監督が就任。海外移籍に揺れるオフを迎えた中村自身は残留を決断し、新指揮官とともに新たなスタートを切ったシーズンとなった。
開幕戦で勝利した翌週となる3月11日に東日本大震災が発生。リーグ戦は延期となり、先行きの見えない中断期間を過ごすこととなる。中村自身はクラブが取り組む街頭募金活動やJ選抜の一員としてプレーするなど復興支援にも尽力している。
相馬監督が掲げたスタイルの元、中村はサイドハーフやボランチなど複数のポジションでプレー。雨の等々力となった第13節のガンバ大阪戦では、チームを逆転勝利に導く2得点を記録。特にラストプレーで決めたサヨナラFKは、いまだに語り草だ。得点後、右腕でガッツポーズを何度も決めて喜び過ぎて、翌日は右腕だけ筋肉痛になったそうである。ただシーズンを通じてみると、2年目のFW小林悠のブレイクがあったものの、夏場の連戦でクラブワーストの8連敗を喫するなど苦しい1年だったと言える。
そしてこの年限りで川崎の太陽・ジュニーニョが退団。2003年からチームを牽引してきたストライカーで中村自身も「ジュニーニョなしでは今の自分はあり得なかった」と感謝の言葉を口にする恩人だ。等々力のラストゲームとなった第33節の横浜F・マリノス戦では惜別となる2得点を決め、最終節でも得点を記録。ストライカーにふさわしい有終の美を飾っている。
出場記録・主な成績/
受賞歴(Jリーグ他)
出場/得点 | ||
---|---|---|
J1リーグ | カップ | 天皇杯 |
30/4 | 2/0 | 1/0 |
主な成績/受賞歴(Jリーグ他) | |
---|---|
チーム | 個人 |
2011 J1リーグ 11位 | ─ |
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Season 2012シーズン途中での監督交代。プロ10年目で益々成長への意欲
相馬体制2年目は序盤から苦しい時期が続いた。クラブは相馬監督との契約解除を決断し、望月達也コーチが監督代行として指揮を執った後、筑波大学の風間八宏監督が新監督に就任した。
徹底的とも言えるほどボールを大事にする指揮官の元、止める・蹴るの技術を妥協せずに追求していくスタイルは、自身が大ファンであるFCバルセロナの方向性とも重なる部分があり、中村にとっても刺激的だった。「本質である『プレーをする』というところ。それでサッカーをして試合に勝ったらすごくうれしい。そしてこれを自分たちで突き詰めていくと、勝敗の責任を自分たちに落とし込める」と意欲的に取り組み、さらにサッカーが上手くなれると実感を口にしていたほどだ。チームだけではなく、自分自身と向き合いながら、技術の正確性をさらに磨き始めたシーズンだったと言える。指揮官が交代するなど変化の大きい1年だったが、中村自身はリーグ戦は全34試合出場と、チームの中心であり続けた。
なおプロとして10年目を迎えた年でもある。「入団したときは、『明日はない』ぐらいの気持ちでやっていたからね。10年もできるとは思っていなかった。まわりの人たちのおかげです。32歳だけど、年齢を感じさせない選手になりたい」と語り、まだまだ成長の意欲を見せていたのも印象的だ。
出場記録・主な成績/
受賞歴(Jリーグ他)
出場/得点 | ||
---|---|---|
J1リーグ | カップ | 天皇杯 |
34/5 | 2/0 | 1/0 |
主な成績/受賞歴(Jリーグ他) | |
---|---|
チーム | 個人 |
2012 J1リーグ 8位 | ─ |
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Season 2013得点を量産。大久保嘉人との相乗効果、兄のような伊藤宏樹の引退。
開幕時から風間八宏監督が指揮を執ったシーズン。序盤は中村自身が痛みを抱えながらプレーしていたため精彩を欠き、チームも開幕から6戦未勝利と苦しんだ。
だが万全の状態で復帰した5月からの活躍は目覚しかった。6月には日本代表としてコンフェデレーションズカップに出場し、帰国後はトップ下のポジションとして得点を量産。自身で「中村史上、一番良い」と宣言するほど圧巻のパフォーマンスを披露したのである。それに伴い、チームの成績も上向き、最終節では優勝のかかった横浜F・マリノスを1-0で撃破。逆転で3位に滑り込みACL出場権を獲得し、この年に加入した大久保嘉人は自身初となる得点王に輝いた。
なおこの年限りで、兄のように慕っていた伊藤宏樹が引退。等々力でのラストマッチとなった最終節では「ここで負けて、宏樹さんの等々力の最後の試合を相手の胴上げで終わらせるわけにはいかなかった」と気迫のこもったプレーを見せた。試合後のインタビューで伊藤の話題を振られた際、その場で顔を伏せて涙した姿も印象的だ。初優勝よりも前に、等々力で中村が涙を流したシーズンでもあった。
出場記録・主な成績/
受賞歴(Jリーグ他)
出場/得点 | ||
---|---|---|
J1リーグ | カップ | 天皇杯 |
29/7 | 5/2 | 2/0 |
主な成績/受賞歴(Jリーグ他) | |
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チーム | 個人 |
2013 J1リーグ 3位 | ─ |
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Season 2014ACLへの再挑戦とブラジルW杯落選の落胆。GO KENGO弾幕に感謝。
風間体制3年目は、4年ぶりの挑戦となったACLとリーグ戦を平行するタフなシーズンとなった。ただ中村にとって忘れられない出来事は、6月に開催されたブラジルW杯だろう。当時33歳。年齢的に考えても、自身のサッカー人生で最後の一大イベントだと位置付けて過ごしていた。
その日本代表のメンバー発表当日、同僚の大久保嘉人がサプライズ選出された一方で、中村は落選。2大会連続出場はならなかった。サッカーのために生き続けてきた中村が、「一瞬ですがどうでもよくなりました」と、率直な思いをブログで綴ったほどの喪失感に見舞われた。
そんな中村に、帰国直後に行われた等々力での横浜F・マリノス戦では、試合前のウォーミングアップ中にバックスタンドを覆うほどの超特大の「GO KENGO」のビッグフラッグが掲げられ、サポーターからの中村憲剛チャントの大合唱が起きている。「あの光景は一生忘れない」と本人は心に深く刻んでいる。
ピッチでは、この年から大島僚太とのダブルボランチを形成。のちに背番号10をつけることになる若武者に、ゲームの流れを読む思考や駆け引きなどボランチの全てを隣で教え込んだ一年ともなった。
出場記録・主な成績/
受賞歴(Jリーグ他)
出場/得点 | |||
---|---|---|---|
J1リーグ | カップ | 天皇杯 | ACL |
30/3 | 2/0 | 0/0 | 8/2 |
主な成績/受賞歴(Jリーグ他) | |
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チーム | 個人 |
2014 J1リーグ 6位 | ─ |
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Season 2015新メインスタンド完成。スタメン外からの原点回帰
この年からJ1リーグは2ステージ制に移行。新しい大会方式でチャンピオンが決まるシーズンとなった。さらに等々力陸上競技場の新メインスタンドが完成。5階の観戦席から初めてピッチを眺めた中村憲剛は「カンプノウ(バルセロナの本拠地)みたいだった……」と興奮気味に語っている。
ボランチでコンビを組む大島僚太との呼吸は成熟の域に達してきた。なおこの年はパフォーマンスの一時的な低下により、中村自身が珍しくスタメンを外され、スーパーサブとして出場した時期がある。しかし「そうなるには、まだ3年早い」と本人は強く奮起。1st第15節湘南ベルマーレ戦では、交代で入った直後に果敢な仕掛けからPKを獲得。逆転勝ちに繋がる仕事を見せ、結果を出すことですぐに先発の座を奪い返した姿が印象的だ。
チームでは盤石の地位を築いている立場ながら、その評価に甘んじることない。「もっともっとサッカーが上手くなりたい」という向上心を持ちながら、若手のようなメンタリティーで毎試合向き合い続けている姿勢こそ、その成長の原点であることを示したシーズンでもあった。
出場記録・主な成績/
受賞歴(Jリーグ他)
出場/得点 | ||
---|---|---|
J1リーグ | カップ | 天皇杯 |
33/2 | 6/0 | 3/0 |
主な成績/受賞歴(Jリーグ他) | |
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チーム | 個人 |
2015 J1リーグ 6位 | 500試合出場達成 |
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Season 2016二つのタイトル獲得に迫るも成就せず。史上最年長でのJリーグMVP受賞
クラブ創立20周年。そして4年半に渡った風間体制の集大成ともなったこの年は、1stステージから優勝争いを演じ、2ndステージを挟んで16試合無敗という戦いぶりを見せている。
中村自身は7月に負傷離脱する時期もあったが、トップ下で躍動。最終的には9ゴールを挙げている。チームは年間2位でチャンピオンシップ出場するも、準決勝で鹿島に敗れ、総合順位は年間3位で終了。残された天皇杯でもクラブ史上初となる決勝進出を果たしたが、延長戦の末にまたも鹿島の前に屈して準優勝。契約満了で退任となる指揮官のラストマッチを飾れず、悲願のタイトル獲得はならなかった。
一方、中村自身は36歳でJリーグ年間最優秀選手賞を受賞。初の大きな栄冠に「自分の力ではなく、まわりのおかげ」と周囲に感謝の言葉を惜しまなかったが、Jリーガーや監督からの投票結果であることを踏まえれば、対戦相手からいかに評価されている存在であったかを示したとも言える。なお歴代最年長の受賞であり、これはギネス記録としても認定された。
出場記録・主な成績/
受賞歴(Jリーグ他)
出場/得点 | ||
---|---|---|
J1リーグ | カップ | 天皇杯 |
33/2 | 6/0 | 3/0 |
主な成績/受賞歴(Jリーグ他) | |
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チーム | 個人 |
2016 J1リーグ 年間3位 天皇杯準優勝 | Jリーグベストイレブン MVP(市場最年長36歳) |
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- 2016-12-20
- 2016-12-25
Season 2017鬼木体制の下さらなる進化を遂げ、超接戦の中クラブ悲願の初タイトルを獲得!
この年から指揮官はコーチから昇格した鬼木達に。前任者が構築した攻撃的なスタイルを受け継ぎながらも、ボールを失った直後の切り替えや局面での球際を徹底。回収率があがれば、ボールを保持する時間が増え、ゲームを支配できる。「攻撃のために守備をやる」と選手たちに伝え、守備力の強度を上乗せしたチーム作りを打ち出した。
鬼木体制での中村は、前線からのメリハリをつけたプレッシングで、守備のスイッチ役としてさらなる進化を遂げていく。自分発信で守備を仕掛けていく面白さは、これまでにはなかった発見だと語っている。
チームは夏場以降に右肩がりで勝ち続けていくも、ACLはベスト8で浦和に逆転負け。さらに天皇杯もベスト8、さらにルヴァンカップも決勝で惜敗と、無冠に終わることも覚悟したシーズンだった。しかしリーグ終盤戦、わずかな可能性を残して繋いで迎えた最終節で5-0で大勝すると、同時刻に行われていた鹿島が引き分け。歴史的な大逆転劇でJリーグ王者に輝いた。
無冠に泣き続けてきたクラブが頂点に立った瞬間、中村はその場に泣き崩れ、そのまま等々力のピッチに突っ伏している。この時の光景は、クラブ史を語る上で永遠に色褪せることはないだろう。そしてこの初優勝は、中村自身、18年のプロキャリアの中でもっとも印象的な出来事だと語っている。
出場記録・主な成績/
受賞歴(Jリーグ他)
出場/得点 | |||
---|---|---|---|
J1リーグ | カップ | 天皇杯 | ACL |
32/6 | 4/0 | 2/0 | 9/1 |
主な成績/受賞歴(Jリーグ他) | |
---|---|
チーム | 個人 |
2017 J1リーグ 優勝(初) YBCルヴァンカップ準優勝 | Jリーグベストイレブン |
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Season 201830代も終わりに近づく中での進化、2シーズン連続優勝の快挙を達成!
Jリーグ王者として迎えたジュビロ磐田との開幕戦。エドゥアルド ネットからのクロスボールに飛び込んで珍しいヘディング弾を記録。「なんであそこに飛び込んで行ったのかはわからないですけど」と2018年のチーム初得点を決めると、公言通りのBKBゴールパフォーマンスでサポーターを大いに沸かせた。
リーグタイトルを獲得したことで、中村はより自分を高めることに集中させて過ごした。「年齢もあるけど、自分が一選手として、攻撃も守備もどれだけやれるか。今はそういうところにベクトルが向いている」と言い、38歳の誕生日の際には「誰も到達したことのないところまで行きたい。もっともっとサッカーのことを知りたい。長老の上となれば、仙人かな」と仙人宣言まで飛び出したほどだ。
チームは夏場から上昇気流に乗り、終盤には首位に浮上。勝てば連覇が決まる一戦は敗れたものの、同時刻で行われていた2位の広島も敗れたため、史上3クラブ目となる最終節前のリーグ優勝を達成。Jリーグ史上5チーム目となるリーグ連覇を飾った。これはいわゆる「オリジナル10」以外のクラブでは初の快挙でもあった。初優勝のような爆発的な歓喜ではなく、噛みしめるような中村の喜び方がチームの成熟を象徴していたと言えるだろう。
出場記録・主な成績/
受賞歴(Jリーグ他)
出場/得点 | |||
---|---|---|---|
J1リーグ | カップ | 天皇杯 | ACL |
33/6 | 2/0 | 2/0 | 2/0 |
主な成績/受賞歴(Jリーグ他) | |
---|---|
チーム | 個人 |
2018 J1リーグ 優勝 (連覇) | Jリーグベストイレブン |
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Season 2019クラブ史上初のカップタイトル獲得! 負傷により全治7ヶ月 自身初の長期離脱へ
リーグ3連覇を目指したシーズン。中村は第2節の鹿島アントラーズ戦でFKを直接決めてゴールを記録。「(ボールを)置いた瞬間に決める予感はあった。落ち着いて蹴れました」と自信を持って蹴った一撃は今季チーム初ゴールとなり、この年のゴールパフォーマンスである中邑真輔氏の「イヤァオ」も披露。等々力の一体感を生み出した。
3連覇を狙う以上、例年以上に、どの相手からも厳しく警戒された。開幕2戦をドローで終えた試合後、「鹿島とFC東京という名のあるチームが、とにかく守ってカウンターで割り切ったサッカーをしてくる。そこまで自分たちが来ているし、そこを肝に命じていかないといけない」と厳しい表情で語った中村の言葉も印象的だ。ホームで勝ち切れない試合が増え、目指した3連覇は逃す結果となった。
一方で、秋にルヴァンカップを初制覇。北海道コンサドーレ札幌との決勝は、PK戦までもつれにもつれた120分間の死闘だったが、途中出場した中村は、CKから生まれた3点目の同点弾を演出し、PKキッカーとしての重責もきっちりと果たした。自身4度目の挑戦にして、ついにルヴァンカップを空高く掲げることが叶った。
だが喜びも束の間、キャリア史上最大の悲劇が訪れる。39歳の誕生日を迎えた直後の試合で、左膝前十字靭帯損傷という大怪我に見舞われてしまったのだ。診断結果は全治7ヶ月。ここから、ひとり胸に密めていたラストイヤーに向け、中村最後の挑戦が始まった──。
出場記録・主な成績/
受賞歴(Jリーグ他)
出場/得点 | |||
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J1リーグ | カップ | 天皇杯 | ACL |
20/2 | 2/0 | 2/0 | 3/0 |
主な成績/受賞歴(Jリーグ他) | |
---|---|
チーム | 個人 |
2019 J1リーグ 4位 YBCルヴァンカップ優勝(初) | ─ |
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Season 2020奇跡の復活劇から、40歳を迎えて突然の引退宣言〜ダブルタイトル獲得、有終の美へ
2020シーズンが開幕。2月の初戦時点、日本国内にはまだいつもと変わらない日常が流れていた。
左膝前十字靭帯損傷からの復帰予定は夏。Jリーグ開幕前、リハビリに取り組む日々にも本人は前向きな言葉を並べている。
「この歳で前十字靭帯をやる選手もいないでしょ。もちろん、そこから復活する選手もいない。その時点でチャレンジのしがいがある。『もうやめていいんじゃない?』という声もあった。でも、それだとあの広島戦が自分の最後の試合になる。それは嫌だった。あれを最後にはしたくない。しっかりと自分の脚を戻して等々力に戻ること」
決意を語ったその矢先、新型コロナウィルスへの懸念が急速に拡がり、2試合のみの開催を経てJリーグのスケジュールはすべて未定となってしまう。社会活動が制限されリーグ再開の目処は誰にも予測が付かない情勢が続く中、中村はじめ選手達は再開に向けたトレーニングメニューを黙々とこなしていった。
2021年7月4日(土)、リーグ戦が満を持して再開。長い雌伏の時とサッカーを求める選手達とサポーターの思いが積み重なり、川崎フロンターレというチームの完成度をかつてない高みに引き上げていた。
連勝を続け首位を独走していたチームに、中村が戻ってきたのは第13節の清水エスパルス戦(リーグ再開後、カップ戦含め14試合目)だった。交代のアナウンスが告げられ、スタジアムのすべての目が注がれ誰もがピッチを躍動する中村から目が離せない。復活した左足でのループシュートを決めるという劇的なシーンで復帰戦を飾り、「等々力に神様はいた」との言葉を残した。
そして40歳の誕生日となるFC東京戦で今季2点目を記録すると、その翌日の11月1日に今季限りでの現役引退を発表した。
中村の引退宣言を受けて、さらに一丸となったチームは史上最速でのJリーグ優勝の偉業を達成。試合後は「もう最高です。最高以外の言葉が浮かばない」と満面の笑みで優勝を噛み締め、等々力の夜空の下で中村はシャーレを高々と掲げた。続く、天皇杯もクラブ史上初の優勝を飾り、1シーズンで初の複数タイトル獲得も達成。18年にも渡った現役ラストシーズンを、これ以上ない形で締めくくった。
出場記録・主な成績/
受賞歴(Jリーグ他)
出場/得点 | ||
---|---|---|
J1リーグ | カップ | 天皇杯 |
13/2 | 0/0 | 1/0 |
主な成績/受賞歴(Jリーグ他) | |
---|---|
チーム | 個人 |
2020 J1リーグ 優勝(史上最速、最高勝点、最高得点、最高得失点差)、天皇杯 優勝 | 川崎市民栄誉賞 受賞(歴代3人目) |
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The Last J.League Game at Todoroki
The Last Game at Todoroki
The Last Pitch at Kokuritsu
Total data for 18 years18年間の総出場数と得点、プレイ時間
カテゴリ | 総出場試合数 | 総得点数 | 総出場時間 |
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J1リーグ通算 | 471試合 | 74得点 | 39,691分 |
J2リーグ通算 | 75試合 | 9得点 | 4,131分 |
カップ戦通算 | 53試合 | 8得点 | 4,074分 |
天皇杯通算 | 36試合 | 4得点 | 3,083分 |
ACL通算 | 41試合 | 9得点 | 3,316分 |
総計 | 676試合 | 104得点 | 54,295分 (約905時間) |