2003/vol.07
代表では充実した日々を送っていたが、神戸での2年目は、わずか9試合出場にとどまった。茂原は、この頃チームで気持ちを奮い立たせることができずにいた。 「あの1年間は、ホントに損した気分。1日1日の練習が無駄だったし、苦痛で早く帰りたかった。もったいなかった」 昨年、フロンターレに期限付き移籍が決まり、新チームの一員となっても、まだ「苦痛」から抜け出せずにいた。 「俺のほうがいいじゃん」 そんな乗らない気持ちで練習に臨んでいるのは、石崎監督にもわかっていた。 「荷物まとめて神戸に帰れ!」 何度か、茂原にそう浴びせた。 「シゲは、けっこうフテくされてたけどな(笑)。でも、5月にツーロン(国際大会)行ってから変わった」 巡ってきたチャンスや運を掴むのも力である。神戸では右サイドの選手だったが、どこでもこなせる器用さが茂原の特徴でもある。代表でも、ボランチだけでなく両サイドやトップ下など、いろんなポジションを試されている。 昨年のフロンターレは、鬼木とマルキーニョがダブルボランチをつとめていたが、7月10日第17節対大分戦で、マルキーニョが一発退場してしまう。次節の甲府戦で、茂原はボランチとして出場した。さらにこの時期、マーロンとアレックスの加入により、マルキーニョの出場が減り、茂原はチャンスを確実に自分のものにした。 練習に気持ちの入らないかつての姿は、もうなかった。変わろうとしている茂原の背中を押したのは神戸の先輩、土屋征夫だった。 「毎日、電話して、いろいろ相談に乗ってもらった。やっぱ、やることやってから文句言おうと思ったから。そしたら、試合にも出られるようになった。気持ちを上げることができなかった前の自分は、若かった。自分で気づかないとダメでしょ。だから、今はもうぜんぜん大丈夫」 |
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石崎監督は茂原について、次のように言う。 「昨年、練習でシゲをボランチにしたらよくて、試合でもハマッた。最初は、ディフェンスができなかったけど、トレーニングして意識がだんだん高くなって、今ではディンフェンスも強い選手になった。試合前に『頑張ろう!』とかよく声だすしね。いろんな選手を見てきたけど、あいつほど変わったやつはいない。他で出られなくてワシのとこ来て試合に出てよくなった選手はいたけど、シゲは最初、出られなかったからな。それでヒネくれてたけど、でも素直なんだよ。センスもあるし、なにをやるかわからない面白さがある。代表でも面白い選手だと思うけどなぁ」 |
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今年8月、茂原は1年ぶりのU-22代表となるエジプト遠征に召集された。中1日で3試合、山本監督はこの遠征を「武者修行」と位置づけた。茂原は、エジプトの強さに久しぶりに刺激を受けていた。とくに、中盤の選手に目が釘付けになった。 「強いし速いしうまい。エジプトとやって自分が変わった気がする。向こうの中盤に、すごいうまい選手がいて、自由に動いて型にはまらないサッカーをしてた。抜けるしパスも捌けるし、すげえなって。昔の自分を思い出した」 自由な発想とチームの戦術。知らず知らずのうちに戦術に偏ったプレーが多くなっていた。戦術のなかで最大限に自分のよさを活かす、という大切さに気づかされた。 「考えているのは、戦術50パーセントで自分のプレー50パーセントで足して100。戦術の部分は、やらなくちゃ試合出られないしね」 理想は、「誰も想像していないようなプレーとかパスをする」こと。その話を聞いて、あるエピソードを思い出した。試合を撮影するカメラマンによると、茂原のプレーには、よく「ひっかかる」という。待ち構えるカメラの予測を裏切り、度々ファインダーからパスの行方が消えてしまうのだ。例えば、完全に右サイドの長橋にボールを出す体勢を取っていながら、一瞬にして体を開いて左にボールをはたく、といった具合だ。 バランスのいいフォームから生まれるインサイドキックが、スッと出る。パスの行く先に受け手がいるかは、練習でコンビネーションを高めるしかない。積極的に、「ここに走ってほしい」と要求していく。試合中は、常にパスの選択肢が頭にある。 |
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「一番いいのはこのパスで、2番目はこのパスで…っていつも考えてるけど、相手のプレッシャーもあるし、それを全部やるだけの技術はない」 「俺、ほんっとに昇格したいんですよ。マジで、今年は昇格したい」 インタビューが終わろうとしている時、茂原が言った。心の底から絞り出した言葉が重く伝わってきた。 しなやかなパスを繰り出す茂原岳人のプレーする先に、どんな未来図が描かれるのだろうか──。 |
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前橋育英高校から2000年、ヴィッセル神戸に加入。2002年に期限付き移籍で川崎フロンターレへ。U-22日本代表候補。 1981年10月6日生まれ、群馬県出身。180cm、71kg。 |