ポープ ウィリアム選手
何度も、何度でも。
テキスト/隠岐満里奈 写真:大堀 優(オフィシャル)
text by OKi, Marina photo by Ohori,Suguru (Official)
15歳で初めて着たフロンターレのユニフォーム。いつか等々力で着ることを夢見て、夢を現実に近づける日々を送ってきた。8年目に夢が現実に変わった。
2018年4月18日、ACL予選リーグ最終戦で、脇坂は途中出場で等々力のピッチを踏んだ。
緊張より、高揚感が体中を包み込んだ。憧れていた場所で、プロデビューを果たした。おそらく、あの時、Jユースカップでキンチョウスタジアムまで駆けつけてくれたフロンターレサポーターの中には、成長して戻ってきた脇坂のプロデビューを目撃し、その時と同じ様に声援を送った方もいたことだろう。
「やっと出番がまわってきたという気持ちとホーム等々力で皆さんが期待してくれているのも分かったし歓声も聞こえてきて、そういうのも含めて興奮しました。監督からは前線の選手は疲れているだろうから守備でとりきるところ、二度追いすることなど言われましたが、攻撃に関してはお前の自由にやってこい、と送り出されました」
脇坂は、思い出がたくさんある等々力に戻ってきた。
15歳の君へ
脇坂泰斗は、神奈川県横浜市で生まれ育った。
友だちに誘われ地元のクラブFC本郷に小学校1年で入り、サッカーを始めた。運動神経もよかったし、同じ小学校の友人たちもそのクラブに入っていたので、サッカーの友だちが学校の友だち、というようなサッカー漬けの日々を送っていた。中学で所属したエスペランサというクラブチームのスクールが脇坂が小学生の時に開校されたため、小学校2年の夏からは、そこにも加入し、平日はエスペランサのスクールに、週末はFC本郷に、というサッカー生活だった。
「小学生の時は、口ではサッカー選手になりたいって言ってましたけど、まだ明確なビジョンとかもなかったです。でも、Jリーグを観に行ったりして、こういうところでプレーしたいなという憧れの気持ちはどんどん強くなっていきました」
身体が大きくなかった脇坂だったが、サッカーセンスは小学生の頃からあったので、一番後ろのポジションからドリブルしてそのままゴールを決めてしまうような、万能な選手だった。
そんな脇坂が、初めての挫折を味わうのは、中学生になってからだった。中学生になってからも、身体が大きくならなかったため、それまで一番だと自負していたプレーが通用しなくなってしまったという。
「同じ学年で試合をする時は出来たんですけど、上の学年にまざると、身体で押し負けてしまうことが多くなってきました。身体も出来上がっていなかったので、ただ筋力をつければいいということでもなかっただろうし、考えてもすぐ答えは出ませんでした」
悔しくて、家に帰るなり「サッカーやめる」と母に言ったこともあった。だが、「やめるのは簡単だけど、あなたにとってサッカーってそんなものだったの?」という言葉が胸に刺さった。
「やめるつもりなんてなかったんですよね。どんなに悔しくても練習を休んだことはなかったし、答えは出なかったけど、どうしたらいいんだっていうことは考えていました。コーチには成長してくるから大丈夫だって言ってもらいましたけど、自分の成長を待てなかったです」
ぶつかる前にプレーすればいいんだ、と中学2年になる頃にだんだん分かってきた脇坂は、そこからさらに半年ぐらいかけて、そういうプレーを身体に染み込ませていった。
そういう時期を経て、中3になる頃には再び中心選手として活躍する脇坂の姿があった。
高校サッカーではなく、Jクラブの下部組織でプレーしたいと考えていた脇坂は、中学3年の夏にフロンターレアカデミーの門を叩く。セレクションの後、その中の3名がユースの練習に参加をすることになった。合否はその週末までに連絡が来ることになり、当時、ユースのコーチだった久野智昭(現トップチームコーチ)からの連絡でユースに入ることが決まった。
脇坂が高校3年になった時、フロンターレOBである今野章がフロンターレU-18の監督に就任した。当時の脇坂について、今野はこう振り返る。
「止めて、蹴る、というトップチームのやり方を踏襲していて、ヤストに関しては、確実に止められるし、そこにストレスがないから、顔を上げる余裕があったり、技術が高いね、とスタッフで話していましたね。攻撃面でもチャンスに絡むところなどアイディアがあるな、と思いました」(今野)
1年から試合に出ていた脇坂はフロンターレU-18の中心選手でもあったが、ジュニアユースから昇格してきたメンバーがほとんどのなか、若干の遠慮も最初の頃はあっただろうし、まさか自分がキャプテンになるとは想像していなかったという。
今野監督は脇坂をキャプテンにし、10番を託した。
脇坂は、「やりたいけど、僕はそういうタイプじゃないですよ」と今野に素直な気持ちを伝えた。
「そしたら今野さんから、お前が一番プレーで引っ張っているし、(キャプテンは)お前自身の成長のためにやってもらいたいとおっしゃいました」
実際のところ、今野はじめコーチングスタッフ陣にとっても、その選択は「チャレンジ」だったという。
「まわりもヤストがそういうタイプだと思っていなかったと思う。だけど、本人の人間的な成長や、周りを見られるようにという期待という部分もあり、やらせてみようという話になったんですよね」(今野)
その後、大学でもキャプテンを経験した後から振り返ると、今野の指名は脇坂のサッカー人生にとって、大きな転機だったと言える。
「はい、そのことは僕にとって人生でも大きかった出来事でした」脇坂キャプテン率いるフロンターレU-18は3年生最後の大会となるJユースカップでフロンターレアカデミー史上初のベスト4進出を果たした。
1学年下には三好康児らもおり、今につながるフロンターレU-18の転機にもなった大会だったと言えるだろう。脇坂は10番を背負いキャプテンだったが、脇坂以外の3年生たちもまた、下の学年にしっかり伝えるなど自ら動いてまとめることが出来るメンバーたちだったという。彼らは、最後の大会に賭けていた。
「夏は、ギリギリで(全国に)出られなくて悔しかったので、冬のこの大会に賭ける想いは強くありました。最後の大会だし、チームとしても個人としてもやってやろうという気持ちが強かったです」
その言葉どおりにフロンターレU-18の懸命な戦う姿勢に応援の声は試合を重ねる度に高まっていった。
準々決勝は浦和レッズU-18と対戦し、2点先制されながらも追いついて、終了間際に逆転をするという劇的な幕切れだった。そして準決勝のサンフレッチェ広島U-18との対戦は、2点リードしながら逆転され、さらにフロンターレが追いついて3対3で延長戦へ。
結局、延長戦で広島にゴールを許し、脇坂のフロンターレU-18の試合は終わった。選手たちは、みんな号泣していたが、脇坂はキャプテンとしての責任感から泣き崩れる選手たちを起こして、整列をし、遠く大阪まで駆けつけてくれたフロンターレサポーターに挨拶をした。一番泣いていたのは、1学年下の板倉滉だった。
ロッカールームに引き上げると、それまで堪えていた涙は瞳から溢れ出し、挨拶をする時には、号泣に変わっていた。
「俺らは全国優勝できなかったけど、お前たちならできる」と途切れ途切れになる言葉を搾り出した。
4年後に、再び
フロンターレのU-18に入った時から、サッカー選手になりたいという夢は、「フロンターレの選手になりたい」という希望に変わっていた。トップチームの選手と同じユニフォームや練習着を着ると、さらにその気持ちは高ぶった。トップチームの練習に参加することも何度かあり、緊張しながらも楽しかった。
「ついていくのがやっと。でも、毎回毎回楽しかったです。先輩たちも、気さくに声をかけてくれるのが嬉しかったですね」
脇坂の去就は、トップチームに上がれるかどうかのギリギリの選択となり、熟考を重ねた結果、その判断がクラブから脇坂に伝えられた。10月のある日、フロンターレの事務所で庄子GM、向島スカウト、今野監督とともに、脇坂と脇坂の両親は面談をすることになった。
「両親も呼ばれていたので、もしかしたらという少しワクワクした気持ちもありました。でも、結果は、『いろいろ考えた結果、見送りだ。でも、大学に行き、4年後にぜひ帰ってきてほしい』と言われました」
不思議と、落ち込む気持ちは生まれなかった。
「けっこうすんなり受け入れられました。僕のことを考えてくれたことも伝わってきたし、阪南大学の話も聞き、親元を離れて人間的にも成長してこい、と言っていただき、悔しい思いもありましたけど、それ以上にやってやろうというか、もっとやらないとダメだなということが明確になった瞬間でした」
阪南大学に進学した脇坂は、4年後フロンターレに行くために、「ブレずに」サッカーに邁進した。その気持ちは、1年の時から変わらなかった。
「寮の門限もなかったし、遊んで潰れてしまう選手もいたと思いますけど、フロンターレスタッフの方からも助言はあったし、言われていたからじゃなく、自分でも(プロ選手になるために)いる、いらないということは判断していましたね。4年後しか見ていなかったし、プロになるためと思って取り組んだ4年間でした。学生だから、授業も出るようにしていました。(サッカーも)大学で結果を出さなければダメだと思ったし、きっちりやらないといけないという危機感の中、4年間は長くないと思って過ごしていました」
脇坂自身のプロになりたいブレない気持ちや思いがそうさせた部分もあったし、「フロンターレに入る」という明確なU-18時代から思い続けてきた目標が、彼の気持ちを安定させていた部分もあっただろう。また、定期的に向島はじめフロンターレのスカウト陣が、「見ていた」こともまた、大きな励みになっていたことは間違いないだろう。ユースからトップチームに昇格することは出来なかったが、そこからの4年間、フロンターレが常に伴走する中で、脇坂の大学時代はあったと言えるからだ。
大学2年の時、インカレ前の大事な時期に、脇坂は左足第五中足骨疲労骨折をしてしまう。ちょうど選抜の立ち上げ時期とも重なり、それも諦めなければならなかった。その時もフロンターレに救われた、と脇坂は言う。向島が脇坂に怪我をした翌日に連絡をし、翌週にはフロンターレの段取りで手術を受けられることになった。
「こんなことまでしてくれるんだ、と本当にありがたかったです。インカレに出られない悔しさもあって、そうしてくださったことは本当に助けられました」
大学3年で、阪南大学はリーグ優勝を果たし、脇坂はMVPも獲得。4年の時は、キャプテンを務め、チームを率いた。ユニバーシアード日本代表にも選出され、海外でのタフな連戦の中、中心選手として活躍し、見事に優勝を果たした。順風満帆な日々に思えた。
だが、キャプテンだった大学4年の後半、脇坂は苦悩する日々を送っていた。
「キャプテンとして、チームを勝たせられないなんて…」
ユニバで結果を残して帰ってきた脇坂だったが、リーグ戦でまさかの4連敗を喫し、失速した阪南大学は、最強との下馬評があったにも関わらず、総理大臣杯でPK負け、最後の大会となった全日本大学サッカー選手権(インカレ)もなんとか出場権を掴むも、初戦で東京国際大学に2対3で敗れてしまった。脇坂は、号泣して立ち上がれなかった。これが、大学時代の最後の試合となった。
「阪南がそこまでの連敗をすることなど僕が大学に入ってから初めてだったし、なんとかしなければと思ってメンバーを集めてミーティングをするなどしました。例え試合に出ていない1年生でも関係ないわけじゃないんだ、というチームの雰囲気を作りたかったし、どうすればいいかと考え続けた1年間でした。僕を含めて4人がプロに行きましたが、そのメンバーに頼りすぎるというか、自分でなんとかしようとお互いがしすぎて、それがうまくいくときはまとまりもあって勝てたけど、自分がなんとかしようとしすぎてしまうと勝てなかったのかなと思います。最後、インカレで負けた時は、ベンチに入れなかった4年生に申し訳ないという気持ちが一番強かったです。悩んだ時間もありましたけど、僕はフロンターレに行くことが決まっていたので、大学のことに集中できましたけど、他のメンバーは進路が決まらないなかでやっていたので、僕の悩みなんてみんなより小さいと思ってやってきました。自分やチームがどうこうじゃなく、出られなくて悔しい思いをしている4年生がいたのは知っていたので、申し訳なくて……」
フロンターレと、共に
2017年12月2日、阪南大学の(サッカー部の)練習が終わり真っ直ぐに一人暮らしの部屋に帰り、鹿島の試合とともにフロンターレの試合を二元中継にして見ていた。優勝が決まり、自然と涙が出た。「この中に入りたいな」という思いが浮かんできた。
振り返ってみると━━。
15歳の時に、セレクションを受けてフロンターレU-18に入った。それより前に小学生の時、フロンターレが好きだった友達のお父さんに連れてきてもらい、等々力で試合を観戦したことがあった。その時、中村憲剛のキーホルダーを買った。“司令塔”という存在は、自分にとって目指すべきものだったから、そのキーホルダーを選んだのだろうと幼かった自分を思う。
フロンターレU-18での日々で、フロンターレのトップチームにあがることを目指した。「帰ってきてほしい」と送り出され、大学時代もブレずにフロンターレに入ることを目標に鍛錬を重ねた。その間、フロンターレのスタッフも脇坂の成長を見守ってきた。そういう関係性を積み重ねてきた。
長年、脇坂を見てきた向島は、こう語る。
「4年間は早いから1日1日を大事に、と脇坂には伝えてきましたが、大学1年から試合に絡んで結果を残してきたし、ブレずにプロになることを目標に積み重ねてきた4年間だったと思います。サッカーだけではなく大阪での生活も含めて自分自身をコントロールして、人間的な成長も大学時代に築けたところも大きかった。重要な場面で結果を出しチームを勝たせる存在だったし、自分のことだけじゃなくキャプテンとしてという部分も含めてすごく大人になったなと感じます。そういう彼を見てきて、絶対に戻さなきゃいけない選手だな、と思いました。今、フロンターレでは特に前線は激戦区ですが、挑戦だということは本人も分かっているし、いつか来るチャンスのために常に自分と向き合って成長していってほしいですね」
フロンターレU-18監督の今野章もまた、脇坂の加入を最も喜んでくれたひとりだっただろう。
「すごいうれしかったですね。スタッフみんな喜びました。地元を離れて決意を持って大阪に行き、そこで1年から経験を積んで、人間的にも技術的にも大人になって帰ってきた。ここから先は、試合に出るためには武器だったり、点に絡むこと、何か“キッカケ”を掴む必要もあるかもしれない。もちろん本人は毎日頑張っていると思いますが、日々我慢しながらもプロの世界なので俺が俺が、という自分自身を出さなければいけないし、チャンスを掴んでほしい。アカデミーの選手やスタッフにとっても、ヤストの活躍は励みになるし、頑張ってほしいですね」(今野)
15歳から8年を経て、掴んだフロンターレトップチームの切符。脇坂は、まだスタートラインに立ったばかりだ。そしてその視線は、未来に向いている。
「今、フロンターレに入り、応援してくれた人たちに、試合に出て活躍することが恩返しだと思うし、得点なりチームを勝たせるプレーをして、もっともっと喜んでもらえるようにしたい。それが感謝の気持ちの恩返しになると思います」
そして、そのために1日1日全力で自分の個性をアピールして、チャレンジに挑む覚悟だ。
「攻撃のところでたくさんボールを受けて、味方と相手を崩す。ターンして前を向いたり、起点となるパスを出したり、シュート、ドリブル、アシストなど増やしていきたいです。ポジションとしては上手い人たちがたくさんいて大変だということは分かっています。僕は今、Jリーグで一番高い壁に自分が挑んでるんだって思ってやっています」
profile
[わきざか・やすと]
川崎フロンターレU-18出身、阪南大学から加入したルーキー。U-18の頃はワイドのポジションが主戦場だったが、大学に入ってからセンターラインでプレーする機会が多くなりユーティリティーな選手へと成長。しなやかな動きから繰り出されるパス、ドリブル、シュートはどれもハイレベル。その才能を開花させ、フロンターレのプリンスとして進化を遂げてもらいたい。
1995年6月11日、神奈川県横浜市生まれ
ニックネーム:ヤスト